愛されるKOKORO.

私は毎日朝と夜の二回、YahooやBing、Googleなど複数のネットニュースの各ジャンルに挙がるトピックスすべてに目を通す。そして挙がっているものの中から「これは!」とその時心にピクッときたものだけをクリックして内容を読む。ピクっとするのは大抵、国内ニュースや国際ニュース、たま~に経済、エンタメ部門であるが、読んだ記事から関連記事へ飛んだり、またそこから新たに知りたいことができて検索したりと、ひとつのテーマから次々に枝を延ばして読んでいるうちに小一時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。自分が興味を持ったニュースだけのバトンリレーであるので、下手な雑誌を読むよりはるかに楽しいひと時だ。

最近、そのネットニュースのなかで頻繁に挙がる記事がある。歌舞伎俳優市川海老蔵さんの妻、小林麻央さんのブログ「KOKORO.」の感想記事だ。
34歳という若さで乳がんを患い、可愛い盛りの小さな二人の子どもを残して、苦しい治療を孤独に続けなければならない若いお母さんの麻央さんだが、彼女の吐露する言葉ひとつひとつに、読者の私はこうして命のあることのありがたさをしみじみと考えさせられる。ポジティブな言葉と周りへの感謝の言葉が並ぶ中、いつもいつもポジティブでいられる時ばかりではないことも、それでも希望を捨てずに「生きたい」と強く願っていることも包み隠さず、正直に話す彼女の素直さがあまりにも美しくて、彼女の持つ人としての心の美しさに私は強烈な輝きと魅力を感じる。

多くの美しく華やかな女優やモデルなどと浮名を流した海老蔵さんが小林麻央さんと結婚した時、「最終的には恋愛と結婚は別ってことだったのね」と思った。とても美しい人ではあったが、女優やモデルのような派手さはない彼女が「浮気の心配は?」と婚約の記者会見で尋ねられ、彼女の出演していたNEWS ZEROにかけ「ZEROでーす」と可愛く答えた時、本当に海老蔵さんは彼女と続くのか?と正直思ってしまったのだ。どれほど彼と結婚したくても、愛以外の別のハードルー例えば梨園の妻としてふさわしい品格の人でなければならないというような何かーを越えられなかったのかもしれない多くの女性たちの中で、難なくすんなり越えることができたように見えた彼女を見て、私が「梨園の妻として”ふさわしい人”だったんだろう」と思ったように、「愛以外の何かが愛以上にあって結婚に至ったんだ」と思い込むことで諦めたファンの女性も多かったのではないだろうか。しかし今回のことで、彼女の魅力は容姿や「ふさわしい」という条件ではなく、彼女のその人となり、その心の美しさにあったと初めて知る私のような一般人も多くいるのではと思う。

彼女の姉、小林麻耶さんとの互いの思いが見えるような会話のやりとりも、姉妹ってこんなに美しい心の通わせ方ができるものなんだろうかと羨ましさを感じずにはいられない。姉の麻耶さんがガンを患う妹を深く思うことを麻央さんはまっすぐに受け止めて感謝をする。それは簡単なようで簡単ではないと私は思う。自分の痛みや苦しみ、不安といった抱えきれない思いは姉だからといってわかるはずがない、そう思ったって不思議ではない精神的状況なのだから。なのに彼女は感謝する。ひとつひとつの小さな心遣いにまっすぐに喜ぶ。相手の気持ちが純度100%であると少しも疑うことなく、自分を見守る人の悲しみや苦しみも、病気の自分と比べられないほど重いと理解して。自分の幸運のひとつは姉の妹として生まれたことと思っている、と書かれた文には思わず涙がこぼれた。そんな姉妹愛がこの世にあるのだろうかと。

夫である海老蔵さんのブログも同じだ。子どもの写真を撮り、毎日のようにブログに載せて入院中の妻に送っていた。彼女のブログの言葉に対して、これ以上ないほど力強い励ましの言葉を届ける。妻が聞きたいであろう愛の言葉を、遠まわしな柔らかい言葉ではなく、出し惜しみなくストレートにパワー全開で送る。誰でも見ることのできるブログにもかかわらず、彼が彼女をどれほど愛しているかが伝わり、「麻央とデートがしたい」「俺が助ける」というような、どんな恋愛ドラマでもそうそう聞くことのできない男らしい素直な言葉で彼女を力強く包んでいる。彼がなぜ彼女と結婚したのか、ここに至って私は、彼女の性格を超え、彼女の魂を深く愛したからだろうとはっきり思えた。人様の愛の話に勝手なことを・・・とは思うが、想像の域を越えられないものの、男の愛とか結婚というものの真の姿を、既婚者であるにも関わらず、私は初めて知ったような気さえするのだ。

その彼女のブログには、どこを探しても「よく見せよう」という飾りが見当たらない。どんなに胸を打つ言葉であっても、彼女の真の言葉に聞えるのだ。夫への愛、子どもへの愛、姉への愛、周りへの愛、そして感謝。一日一日を丁寧に生きることの尊さ、快復を心から信じて前向きに戦うことの美しさ。ここから私が学ぶことは大変多く、言葉ひとつひとつがまるで生きたバイブルのように私の心にすんなりと入ってくる。

病になってから彼女が急にそうなったのではないだろう。彼女のことを私は何も知らないし、興味を持ってテレビを見たこともなかったのにそう感じられるのは、彼女の「体が思うように動かなくなったら心が動き出した」という文を読んだ時である。今まで動かせた体がいうことを聞かなくなれば、周りに当たり、毒舌を吐き・・・というのはよく聞く。周りはその人の心情を察し、「自分より何百倍も病人は体も心も辛いんだから」と自分に言い聞かせて付き添う。病人はそのこともちゃんと自覚していて、時には激しい自己嫌悪に陥りながらも、自分ではどうにもならない負のサイクルにますます精神を乱していく。
病はどんなに穏やかでいい人であっても、そうさせてしまうのだと思っていた。亡き母も厚い宗教心を持っていたが、最期の頃はそれまでは抱かなかったような思いを一度ならず持っていたし、ふるまいも時には荒れた。それが彼女はどうだろう。体が一番底の状態の身体でお世話になるのに、それを受け止めてくれる看護師の器の大きさは計り知れない、と述べたり、自分が薬を使えるようになるまでの多くの人の苦しみに思いを馳せたり・・。そんな周りへの感謝の気持ちは無からは決して生まれない。急にそうなったのではないのだ。こんな状態にあっても感謝を述べられるということがどれほど稀少であるか誰にだってわかる。人として誰もが真似のできることではないし、私などは100%不可能だろう。

彼女のそうした心の動かし方は彼女自身の美しい魂から来ているとするなら、どこでそんな心が育ったのだろう。思い返せば、こうして彼女のことを考えたのは今回が初めてではなかった。海老蔵さんは婚約会見の時、「一生愛し続ける」「来世でも来々世でも一緒にいよう」とプロポーズしたと語り、そのとてつもない強い言葉に私は座り込んでしまいそうになった。私が言われたのなら崩れてしまっていたに違いない。まるで初めて恋をした男が、思いのたけをどう伝えたらいいのかわからなくて、狂おしく言ってしまいそうな青臭くて歯の浮く言葉を、これほど恋多き男がストレートに言ったということに驚いたし、そう言われたと話す麻央さんに私は女として嫉妬したことをはっきり覚えている。こんなプロポーズ、どんなに聞きたいと夢見ても、一生かかっても聞けないような言葉なのだから。そして分不相応ながら、ここまで男に言わせる小林麻央という女性は私と何が違うのだろうと考えたのだ。美貌もあるが、それ以上に何が違うのか、そんなことを考えたことがあった。

今になり、こうして2人のブログを読んで、自分と彼女の違いは心の美しさを超えた魂の美しさだとわかった。どうやってそんな魂を持てたのか、自分自身のこともあるが、子どもを持つ親として知れるものなら知りたい点であるけれど、それはきっと持って生まれたもの以外に、育った環境が大きい気がしている。裕福かそうでないかという環境ではなく、親からどんな言葉、どんな愛を受けて育ったか、どんな友達とどんな友情で結ばれて大きくなったか、そうした心を育てる環境のことである。苗がちょっとした原因で曲がってしまった時、左に曲がったら右へ、右に曲がったら左へ戻そうと、その曲ろうとする力に見合った力加減で、その都度優しく力を掛けてくれる人がいたに違いないと思うのだ。強すぎも弱すぎもしない力加減をバランスよく、タイミングよく、温かい心を持って掛けられ、そうやってまっすぐ生かされた人が魂の美しい、愛される人に育つのかもしれない。
言葉にすると陳腐で、子育ての本などを読めばいくらでも書いてありそうな気がするが、実際にそんな育て方をしてこんな人になりました、とその人の心の持ちようや愛され方を見せられたことはない。彼女がどう育ったのか私は何もわからないけれど、一緒に育った姉の麻耶さんを見て、麻央さんとの会話をほんの少しだけ垣間見て、彼女こそそういう人なのではないかと思えてくるのだ。

悲しいかな、私はそこまで愛されたことはないかもしれないと思う。結婚し、子どももいる身で言うことではないかもしれないが、自分はそこまで愛されるほど魂の美しい人間、女であった自信がないからだ。将来がほぼ約束された子どもを育てるゆとり、経済的なゆとり、夫の愛なども彼女の魂をさらに豊かにしたのかもしれないが、反面将来を半ば決められている子どもを育てるプレッシャーも、世間に対するプレッシャーもあるかもしれない。いろいろ違いはあっても、それが彼女と私の魂の差の決定的な言い訳にはならないとわかる。もともとの魂の育ち、自分の魂の育て方に差があるのだ。不思議なほど、それを認めることが苦痛でない。近づきたくでも近づけないほど、自分の魂との差に完敗だからだ。
婚約会見の時の彼の熱い言葉は今なお、それを裏付けるかのように変わらないことをブログから感じる。私は羨ましさより自分の努力の至らなさを後悔した。

彼女のブログは多くの女性に乳がん検診を受けるきっかけを与えただろうし、同じように闘病する人へ勇気を与えただろう。しかし、そうではない人にも健康が決して当たり前ではないことや毎日を丁寧に生きるということ、夫や子どもへの思いや周りの人への深い感謝の心を持って生きることの大切さをもう一度考えさせ、生き直してみようと思うきっかけになったのではないかと想像する。
私が彼女から一番つよく感じたのは、彼女の心を育てた人もまた魂の美しい人であったのだろうということだった。愛される人を育てるには、その人を愛するということ。人を育てることは自分を育てること。結局、受けた愛が愛を生み、愛を育て、愛を与え、愛をつなぐのだ。愛は輪廻のように続き、多くの人をその温かい渦に巻き込み、また愛を生み、広がっていくことを学んだ。

彼女自身が奇跡なのだから、奇跡は起こると私は信じている。そして私も奇跡を起こしたい。霊的に美しい人に生まれ変わることだ。だいぶ遅いけれど、まだ間に合うだろうか。
私がこの世を去る時、「来世でも来々世でも一緒になろう」と夫に言われること、「来世でも来々世でも親子になろう」と子どもに言われること。一生かけて一歩、二歩彼女に近づいていけるようになりたいと心から思う。

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