サンマを食す

今年はサンマが高騰しているというニュースを先日聞いたばかりだったが、ネットスーパーで北海道の生サンマが一尾97円とあり即決。信頼を置く西友のネットスーパーなので、店頭で実物をみることなくポチっとした。疑り深い私のいちじるしい進歩である。
客の信頼を受け、その有難さと責任の重みを感じたのか、翌日配達してくれたサンマは立派なものだった。97円らしい小ぶりなサンマがくるだろう、と思っていたのに、魚焼きグリルから飛び出しそうなほど大きく、目もすごくキレイ。肌はパンッと張り、脂がのっていそうなボンッとした肉付き、腸はキュッと締まって、お腹から何か漏れ出したりなどしていない、それはきれいなサンマだった。西友の「どうだ!」という声が聞こえてきそうである。
早速、今夜はサンマだ! 塩をまんべんなく振ってグリルで焼くと、脂がのって激しくバチバチ音をたてる。皮も軽い焦げ目と共に香ばしくパリパリに焼けた。

さあ、食べよ~とテーブルに並べ「いただきます!」となったのだが、しみじみと秋を味わう暇もなく、隣りに座っている息子のサンマの食べ方に唖然とした。まるで今夜はサンマしか並んでいないかのように、サンマだけに全神経を集中させて、小骨に注意しながら、嫌いな肝に触れないようにと一人静かな格闘をしているのである。見ているこっちまで息が詰まりそうになるほどで、ソロソロとした箸の先から伝わる緊張感に、焼かれたサンマもしびれを切らし「いい加減にせい!」と跳ね起きるんじゃないかと思うくらいだ。切り身や刺身ばかり食べさせてきたわけではないと思っていたが、息子のこんなサンマの食し方を見たら、母として言い訳はできない。サンマは身も細いのでハードルが高かったのかもしれないが、これからは頻繁に魚の丸物を焼いて出さなきゃ・・・と猛反省した。

夫は「猫も嫌うほどきれいに」小骨まで残さずサンマを食べた。「こんなにきれいに食べられるんだぞ」と無言で示す、これ見よがしのキレイさである。
私も魚には自信がある方だが、イワシ以上の大きさの魚の小骨は絶対に口にしない。子どものころ扁桃腺がいつもポンポンに腫れていたせいで、昔からしょっちゅう喉に小骨が刺さり苦しんだ経験から、今もって大変な”小骨恐怖症”なのである。ビール片手にサンマの肝にスダチをかけて身と一緒に食べるのが大好きなのにもかかわらず、小骨と触れ合う肝の辺りは危険地帯で、おまけに近眼と老眼が一気に進んだせいで今はほとんど小骨が見えず、よけることもできない。それでも久しぶりの旬のサンマだ。諦め悪く目を細めたり見開いたり、近づいたり離れたりしながら、大根おろしの汁の中で骨を洗い落とすようにして肝を拾うようにして食べたが、結局は長皿の隅にお灸のような小骨と肝の残りが混ざった小山を作ってしまった。無念極まりない・・・。
息子はというと、本人曰く「食べ終わった」皿は、身さえ未だ完食できていないありさま。「これじゃ、サンマが成仏できないよ」と、なんとかサンマに許してもらえるところまで身を指摘しながら食べさせた。

お隣り韓国のドラマではイシモチの焼き魚がよく登場する。日本の市場ではあまり出回らない魚なようで私は食べたことがないが、韓国では高級魚扱いなんだそうだ。どこかのネットに、日本の鯛のようなランクにあたるともあり、国が違えば魚の好みも様々だ。
韓国ドラマを見ていると、イシモチなのか、別の魚かはわからないが、焼いた魚を母親が大胆にも手で半分に割り、身を指でむしって、小さな子どもだけでなく、大きい子どもや娘婿の御飯の上に手で置いてやっているのをよく見かける。初めてその光景をテレビで見た時は本当に衝撃的だった。魚を手でむしるという行為も、大人に身をむしってやる感覚も、それを人前であっても当たり前のようにやる習慣も、私には全く想像できないことだからだ。

私は子どものころ、母からどこに小骨が多いかを教えてもらい、その部分以外を気を付けながら自分で食べて、小骨の多い所は母に手伝ってもらいながらも自分で食べた。それでも骨が喉に刺さると、「扁桃腺、手術して切り取ってもらおうかねえ」と震えあがるようなことを言ったり、「御飯多めで一緒に食べなきゃ」と丸呑みすることを勧められたりもし、何のためにこんな魚食べなきゃいけないの?と思ったりしたが、母は「魚がきれいに食べられるようになると、いいお嫁さんだって相手の親から必ず褒められるから、きれいに食べられるようにしなさい」と言って、小学生ぐらいからは余りきれいに食べられなくても怒らず、自分で食べられるように仕向けた。
もちろん、韓国でも普段は一人で魚を食べるが、母親が手で身をほぐすシーンは、してもらった人が自分のさじの上にのせてくれた魚を見て母親の愛情の深さをしみじみ感じ、時には涙ぐむという場面になる。
はじめのうちは、手でむしる行為はもちろん、とんでもない甘やかしのように思えて嫌悪感すら感じるほどだったが、見慣れてくるとそのうち、親鳥がエサをくわえて巣に戻り、ピーチク鳴いている雛に口移しで食べさせてやっているような、何かとても温かい気持ちにさせられるようになっていった。日本では決してやらない行為だろうが、こんな愛情のかけ方も時にはいいな・・・なんて思うように感化されたのだ。まあ、さすがに手は使わないけれどね。

しかしそうは思っても、やはり息子のサンマの格闘を見ても手は出さなかった。日本なら当然のことだ。まだ小さな子ならともかく、うまく食べられないからと手を貸すのは親バカでしかない。きっとそれは韓国でも同じだろう。一人できれいに食べられる人に対して、愛情をこめてそっと置いてやるというならいいだろうが。
だが、きっと私にそんな瞬間は訪れないだろう。息子はまだしばらくは修行の身だろうし、そうこうするうちに結婚するかもしれない。夫にはしてやる必要はまずない。何せ、私より早くきれいに食べられるのだから。もしすると、老人ホームで私が夫にしてもらうのが最も早い”その瞬間”かも。

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