母のおしゃれ

私は”流行り”に疎い。ファッションでも食べ物でも、流行が落ち着いて安定してきたころにその良さを感じ取れるようになり、すたれた頃になって「よっこらしょ・・・」と手を伸ばすような人間だ。あの一大冬ソナブームもヨン様ブームも私には何の影響も及ぼさず、冬ソナの再々々放送ぐらいになって、これ以上知らんぷりしていると浦島太郎にさえなれないかも・・・と思って見始めたくらいで、若い時からやや”化石”なところがある。しかし、こうした”ものぐさ”というか”頭の固さ”は、こんなちょっとしたところに見られるだけの小さな事象かと思っていたら、意外とありとあらゆるところに現れて”私”というものを作っているようだ。よく言えば”慎重”とも”石橋を叩いて渡る”とも他人から人物評価されるが、時には高じて「あー石橋を叩き割って渡れなくなっちゃった・・・」と一人ひっそり凹むような性格にまで育ったのだから。

その点、亡き母は私とは全く正反対だった。「明日は明日の風が吹く」という『風と共に去りぬ』のラストシーンのスカーレットの強さが好きだという人で、「くよくよしなさんな」「この世のことはこの世で解決できる」「明日も太陽は昇ってくる」「時間が解決する」といった言葉が口癖だった。時には「神様は鳥にだって明日の糧を心配させることはない。人間には尚更、神様は救いの手を差し伸べてくれる」といった聖書からの引用もして、私が悩んでいると励ましてくれたが、その大らかさは2人の子どものうち、子どものころは弟に、大人になってからはかなりの水割り状態になって私に受け継がれた。

母の大らかさの素根本は「生きている今が大事」という考えで、それが生まれた時からの性格からくるのか、後天的なものなのか、どちらがより強いのかはわからない。伊勢湾台風で多くの悲惨な死を目の前で見、危機一髪生き延びた母は、その壮絶な経験も起因しただろうし、交通事故で死にかけた母は、その苦しい経験からも影響を受けただろう。入退院を繰り返す体に若い頃からなったことも、それをきっかけにキリスト教の信者になって生と死を見つめたことも理由としてあっただろう。そして、「今あるもので満足しなさい」という教えと「今を大事に生きなさい」「時間には限りがある。その時にしかできないことがある」という教えが、時には他人からみて都合よく絡み合う、しかし母の信念としては一本筋の通った生き方をした。

母は決して浪費家ではなく、生活は非常につつましやかだったが、おしゃれは大好きな人だった。料理より断然裁縫が好きというところは、間違いなく遺伝だ。
母の母、つまり私の祖母は明治生まれの田舎育ちだったが、そのまた母親の「女にこそ手に職が必要だ」という教育方針によって、家から非常に遠い女学校に通い、卒業後は和裁の学校へも行って師範の免状を取ったという当時の田舎の人間としては異色の祖母である。その祖母が亡くなる少し前のある日、見舞いに病室へ入って行った母の姿を見て「こんなところにボタンがつけて、伊達でいい・・・」と目だけクリクリさせながら弱弱しい声で言ったという。死期が目前に迫り、骨と皮だけになっても、そんなところにまだ目がいくと知った母は、病室に行くときには母親の目をひきそうな服をあえて選んで着て行ったと言っていた。

母のおしゃれ好きは、ただ既製品を買って着るのが好きなだけでなく、作ることから好きだった。学校を卒業後は会社、そして銀行に勤めたが、自分の既製服をばらして型紙を起こし、通勤着を毎週1着か2着作ったという。作った服はワンピースやスカートだけではない。ジャケット、テーラーシャツ、ツーピース、コートといった全ての服である。「一番皆が振り返ったわ」と話してくれたのは冬のウールの真っ白いコートだったという。話を聞いた当時からファッションに疎い私は、白といえば夏のイメージ、コートといえばキャメルかグレーか黒か・・・だったが、母は「だから冬の白いコートはおしゃれで贅沢なのよ」と笑った。ハイヒールを履き、自分で作ったスーツに白いコートを羽織って、オフィス街を颯爽と誇らしげに歩く若き母を見てみたかったが、そんな時代があったから、その後死ぬまで続く病の苦しみの中で、若さをはつらつと謳歌した自分の人生を振り返り「あの時楽しんでおいてよかった」と思ったかもしれない。

子どもが生まれてからは、そのファッションの向かう先は娘の私になり、私が子どもの頃は自分の体調がいいとワンピースや胸当てのついたパンツ、発表会用のドレスなど様々なものを作ってくれた。そのどの服もよく覚えているが、特にファッション性のあるものとして記憶に残っているのはパンタロンである。大人のファッションでパンタロンスーツが流行ると、小学生の私にも裾の広がった子どもサイズのパンタロンにジャケットまで作ってスーツにしたのだ。裾の広がりに「なんかバサバサするなあ・・・」と思ったが、母は「これが流行りなのよ」と言っていたことをよく覚えている。さすがに学校へは下のパンタロンだけだったはずだが、周りの友達はちびまる子ちゃんみたいな吊りスカートをはいているのに、母は毎朝私の髪に櫛をあてて前髪をふたつに分けてチョンボに結び、その辺では決して売っていないパンタロンやテーラーシャツ、バラの刺しゅうなど刺したフレンチスリーブのワンピースを着るのだから、学校では当然少々浮いているのだが、母は自分が寝間着しか着られない体になっても、子どもの私にそんな大人同然のおしゃれをさせてくれた。

大人になると、母はちょくちょく店に行っては、勝手に見繕って私に服を買ってきてくれたり、一緒に出掛けると、その気のあまりない私を連れまわすようにしてスカートにセーターとか、ワンピースとか、いつもセットにして買ってくれた。子どものころとはまた違って、今度は年頃の娘をきれいに見せるおしゃれをさせたいという思いと、そんな娘を見たいという母の楽しみだったのだろう。
大学生になり人生初めてのデートをするという時も、母は相手の顔も名前も知らないのに、何も言わずに私を店に連れて行っていつもと変わらず服選びをはじめ、私が色に迷うというと「あなたが好きな色じゃなくて、彼が好きな色、彼にきれいだと思ってもらえる色にしなきゃ」と言って、娘の私が一番きれいに見える色を勧めた。そんな基準で服選びをするなんて・・・とちょっと気恥ずかしい思いもしたが、試着した私を見て母は「親が言うのもなんだけど、あんたきれいだわ」と一言ぽつりと言って、恋する娘の応援をしてくれた。
仕事を始めるようになると、「若い時はおしゃれしなさい。ちょっと無理しても、その分頑張って働けばいいんだから」と言った。今の夫と初めてデートをするという時も、その直前に母は「これくらいが若い子にぴったりよ」と、さわやかなアクアマリンが一列にいくつも並んだ細い金の指輪を買ってはめてくれた。まるでレジの前に置かれているお菓子でも買うみたいにさらっと・・・。そんなあっさりとした買い物の仕方も母の特徴だった。自分の目を信じ、いいと思ったらその出会いを逃さず即決し、迷わない。私の”ものぐさ”が石橋を叩き割る性格になったのと同じで、母のこの性質はファッションに限らず、何事においてもそんな感じだった。
例えば「教育には時がある。お金があったら、お金がたまったら・・・では済まされないのが子どもの教育だ」という考えも同じである。これは母の母、そのまた母から脈々と続く家訓だった。教育でもファッションでも、決して戻らない時間や若さは人生であまりにも貴重である、という考えを代々受け継いできた母は、私たち子どもにも同じようにし、「するべき時、できる時にすることが後悔のない生き方だ」という考え方が私にも引き継がれた。これは、買いたいと思ったら買うという単純な話ではなく、限られたお金、限られた時間の中で何を重要視したいかを明確にし、直感を信じ、その結果は自己責任、後悔はしない、というカッコいいほどポジティブな生き方の話であり、母はそれを私に見せてくれたように思うのだ。

年をとってからもファッションの流行には敏感でありつづけ、柔軟な感覚を持っていた母は、新しいトレンドに首をひねることなく、自分もちょっと流行を取り入れた服を好んで着ていた。結婚し、実家を離れて東京と地方と離れて暮らしていたが、母が亡くなり遺品となった服を整理してみると、私より何倍も衣装持ちだったことがわかった。それも”旬”なものばかり。病院に行く時にしか外出着など着ることのない母の唯一のおしゃれだった。母は何一つ変わっていなかったと知った時、自分がもっとおしゃれした姿を見せてあげればよかったと悔やんだ。

最近、母の形見となった服を時々着ては母に尋ねている。「どう?キレイ?」と。
私が幸せであること、私がきれいに装っていることをニコニコして見ていた母は、祖母が死ぬ間際に「ボタンがついていて伊達でいい」と言った姿と重なる。祖母も母も、今頃だらしない私を見て「もっとおしゃれしてよ」と言っているに違いない。最後までしっかり生きて、その時が来たら旬のおしゃれをして母に会いに行こうと思っている。

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