母のスイーツ

これまでの人生で、一番平和で懐かしく思い起こされるのはいつだった?と問われたら、みんな何と答えるだろう。
若い人に聞くのと、私ぐらい以上の年齢も行った人に聞くのとでは答えは違うかもしれないが、私はやはり小学生時代だと答える。
朝起きて学校に行き、楽しく懸命にその日の”今”だけを全力で生きて、夜は電池が切れたように眠る・・・。野生の生き物のように、ただその繰り返しをして、幸福だの人生だのといった考えは全くなかった頃を子ども時代というなら、未来という概念を持ち、そのための準備をしながら”今”を生きるようになり始めた中学生の頃は、もう平和で懐かしく思い起こされるだけの時代ではない。未来のために中学受験をしようと塾通いをしている小学生には、こんな私の感覚は”むかしものがたり”のように聞こえるかもしれないが。

私の小学生時代はたびたび転校もしたし、時にはいじめにもあって、決して楽しく幸せなだけの時間ではなかったけれど、それでも平和で懐かしい、幸せな記憶となっている。なぜなのかとつらつら考えていると、私が学校から帰って来る時間に合わせて母が作ってくれるクッキーの焼けるにおいや、シュークリームを焼くにおいが、どこからかまるで背景のように漂ってくる。

病弱だった母は、西洋医学だけでなく東洋医学に救いを求めて、台所で毎日漢方を煎じていた時期がある。そのにおいは漢方独特の大変つよいもので、学校から帰り玄関の扉の外に立っただけで煎じていることがわかるほどだった。それは、母の体の悪さがどの程度なのか把握できない子どもに、このにおいと同じくらい母の病気は重いのだとわからせた。そんなにおいを玄関の外で嗅いだ日は、楽しい学校の時間から現実に引き戻されてランドセルを背負ったまま立ち尽くし、自分がこれから生きる命を半分にして構わないから母をどうか救ってほしいと懸命に、懸命に祈った。

しかし、そんな母もたまに具合のいい日もあった。それはやはり玄関の外に立つだけでわかった。社宅の鉄板のような扉からクッキーやマドレーヌを焼く甘い匂いが漂ってくるからだ。
「ただいま~!何焼いてるの?!」と元気よく家に駆けこむと、台所で普段着を着てお菓子を作っている母がいる。薬のにおいがしみついたパジャマにガウンを羽織っているのがいつもの母の姿なのに、普段着を着ている!それだけで私には本当に嬉しくてたまらないのに、テーブルには既に焼けた花柄や市松模様のクッキーが並んでいるのを見ると、その幸せはまさに絶頂だった。

「食べていい?」
「まだ熱いから気をつけて」

そう言われて、そっと温かいクッキーを一枚つまみ口に入れると、甘くて美味しい幸せと母が元気なのが嬉しいという幸せでいっぱいになり、この世で一番幸せな子どもというのは、お母さんが元気で、いつも家にいてくれて、こうしてお菓子を作ってくれたり一緒に食べたりできる子だ、としみじみ思った。そして、友達はみなこんな幸せを当たり前のように過ごせているんだろうなと思ったりした。

さらに喜びを感じたのはシュークリームを作ってくれた日である。
シュークリームの皮生地を焼いている間、これが本当に入道雲みたいに膨らむの?と目が焼けそうになりながらオーブンの中を眺めていたり、皮が焼けるまでの間に作るカスタード作りでは、弱火にかけている鍋の中に卵黄をぽとんぽとんと割り入れて、ムッチムッチと音を立てながら練っていく工程も見ていて楽しかった。
そうして出来上がった黄色いカスタードは甘い艶々したクリームで、まさに”幸せのカスタード”とネーミングしたくなるような極上の色と味である。モクモクと膨らんで焼き上がったシュークリームの皮の底を切り、粗熱のとれたカスタードを絞り口を使って空洞の皮のなかに絞り口を使ってたっぷりと詰めた。
本当に美味しかった。今そのシュークリームを食べたいと思っても、買って来たものでは絶対に無理である。私が記憶するそのシュークリームは、冷めるまで待っていられずに台所の椅子に膝立ちしてほおばった、ほんのり温かいシュークリームだからである。

母はこうしたスイーツを本を見て作っていた。表カバーのなくなった水色のハード表紙の本で、その裏に母の料理中に私か弟が書いた意味不明の落書きがあるのを見ると、覚えていないだけで、私の記憶している頃より前から母はスイーツを作ってくれていたのだろう。
その本には白黒写真つきで沢山のお菓子の作り方が載っていたが、その中で私が最も憧れたのは「スワンのシュークリーム」だった。
それはシュークリームの底部分の上にカスタードと生クリームが絞り口でたっぷり飾られ、それを覆うように二枚に切ったシュークリームの皮を羽根のように添えて粉砂糖がふわっとかかり、別に形作って焼いた細くS字に曲った首がやや下を向くようにつけられていた。その首の傾き具合といい、羽根の盛り上がりといい、お菓子というより芸術品のように美しく、いつもそのページをうっとり見入っていた。
母に何度か「スワンのシュークリームを作って」と頼んだが、母は「これは細かいのよね・・・」と言って、一回作ってくれたような気もするが、あまりよく覚えていない。

母は本当は料理よりも洋裁が得意で、私の洋服を何枚も作ってくれたが、洋服でもお菓子でも母が作ってくれている時は母が病気であることなどすっかり忘れて、私はよくおねだりしていたように思う。小学生のその時代は平和で懐かしい時として思い起こされるが、当時の自分に憑依するように立ち戻ると、小さな体の中にある私の心には、いつも不安や悲しみという通奏低音が流れていたことを大人の私は知る。
しかし、だからこそ陽だまりのように温かく甘いクッキーの匂いや母の声が、沁みわたるような幸せと平和を感じさせたのだろうし、また同時に、この時間が長くは続くことはなく、束の間の平和だったといつか思い出す日が来るだろうと子ども心にわかっていたからこそ、そうした一瞬一瞬が私の心に決して忘れてはいけない宝物として深く刻まれたのだろうと思う。

あれからウン十年、私も息子を持つ母親となった。母のように洋服は作らなかったし、クッキーも息子のために焼いたりはできなかった。しかし、代わりに”とりあえず健康な母”である。刹那的に生きた私とは違い、未来はバラ色と信じているかのようにのほほんと育った息子には私の感覚は分からないだろう。それはそれでいい。
確かに、世の中にはわざわざ経験する必要のない苦労もある。知らないで済むものは知らないままが幸せではあるが、しかし悲しみを知るからこそ私は幸せの瞬間を色濃く記憶に残したのかもしれないし、今も当時のまま、その幸せの感覚を再び感じることができるのだとしたら、私は息子より幸せなのかもしれない。

悲しい記憶は忘れることはなくても少しずつ薄らいで癒されていくが、幸せな記憶は薄らぎもせず、その幸せがどれほど大きかったか、時間と共にさらにわかるようになると聞いたことがある。そうしないと”未来”という概念を知り、先を見て生きる動物である人間は生きていけないのかもしれない。
母は亡くなってからも、その幸せな記憶によって私を今も生かし、幸せにしてくれている。
私も息子のために、今更かもしれないが母を見習ってスイーツを作ってみようかな。私の十八番は杏仁豆腐だけであるが・・・。

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