つくつくぼうし

子どもの頃、私は田舎の庭付き一軒家に住んでいた。母の実家から車で7、8分ほどの新しい住宅街で、転勤族だった両親が土地を購入し家を建てたのだ。私が幼稚園の頃のことである。
転勤族の私たち家族は、その家を空き家にして各地を転々とし、私や弟が長期休みになると、その間はその家の風通しを兼ねて帰省した。夏は約一か月近く母と子ども二人だけが田舎へ行き、父は転勤先の社宅マンションに1人残って仕事をした。今思うと、病弱だった母が子どもと共に長期間家を空けることについて、父と母の間でどう話し合っていたのだろうと考えたりする。

しかし子どもだった私は、夏と春の長期休暇には田舎に帰るという決まりごとに毎回ワクワクしていた。ピアノのレッスンは約1か月ほどお休みにし、机を綺麗にかたずけて宿題を全てカバンに詰め、カーテンを閉めて、母が作ってくれたよそ行きの服を着て出掛ける瞬間の気分を今もはっきりと思い起こすことが出来る。小学3、4年生の頃のことだ。その頃のことをこんなにも覚えているというのは不思議であるけれど、帰る田舎があったということはとても幸せなことだったんだと東京生まれの東京育ちの息子を見て、今はつくづく思う。

田舎の家はその後建て替えをして二階建てになったが、当時は小さな平屋で、庭の方がはるかに広かった。敷地のほぼ真ん中に家がぽつんと建ち、裏は畑と鳥小屋と駐車場、表は松とツゲ、もみじが植えられているだけで、あとは「走り回れ!」とばかりに芝が植えられただけの広いあそび場になっていた。到着するとまずその庭に行き、懐かしい思いと遊びたい思いで顔が破れそうになるくらい嬉しかった。

しかし半年ぶりにやってくると、そんなお楽しみの前にやることが山積みである。
温泉が各家庭に引かれている土地であったため、湯が出る方の蛇口をしばらくぶりに開けるとすさまじいほどの赤茶色の水が出る。風呂場担当の私は、湯の出る蛇口を全開にして温泉水を流す。蛇口から叩き付けるように断続的に出る水のサビと温泉独特のにおいが風呂場が充満する中、留守の間にどこから忍び込んだのか、蜘蛛が湯船や天井に張った巣をデッキブラシで取り、赤茶色の水が出なくなるまで水を流しっぱなしにした。水の出る蛇口の方も同様にしばらく流しっぱなしにして、風呂場をきれいさっぱり洗いあげて、初めて天然温泉のお風呂に入れる用意が整うのだ。

その間、4つ下の弟は持ってきたミニカーで早速遊んだり、庭を探検したりしていたが、母は弟を遊ばせたまま、私には「買い物リスト」を渡して買い物に行かせた。姉とはまあそういう宿命ではあるが、久しぶりの地ではそれも全てが楽しい。
いつも買い物かごを仕舞っている戸棚を開けて「懐かしいかご~」なんて言いながら取り出し、これまた久しぶりの道を歩いて近くのスーパーへ買いに行く。誰か近所の知り合いの人が私を見たら「あれ?どうしたの?!」って驚くだろうなあ・・・なんて想像しながら。
個人商店のような小さなスーパーだが、とりあえず食料品も日用品も普通の物は揃っている店で、そこでも「なんだか懐かしい~」となるのだ。そんなひとつひとつが楽しかった。

夏は芝刈り機をコトコトと押して庭の芝を刈り、その芝を八つ手でかき集めると庭にブロックを積んで作った焼却炉で燃やすというのも手伝いのひとつだったが、芝を切る青い匂いも煙のにおいも好きだったし、夕方庭に散水すると立ち昇る土のにおいと芝の匂いも好きだった。田んぼのあぜ道では濃いピンクの花をつけるマメ科の植物の鞘から小さな種をとり、笛にしてぷーぷー鳴らしながら祖父母の家まで遊びに行くのも楽しかった。夜になると辺りの田んぼから聞こえるカエルの大合唱も、蚊帳を吊って寝るのも、何もかもが「田舎に帰って来たなあ」と思わせてくれる幸せな時間だった。

春は菜花の産地らしく、辺り一面にこぼれ種から咲いた菜の花でいっぱいのあぜ道を、つくしを摘んで歩いたり、レンゲソウやシロツメクサで花冠を作ったり、マジックテープのように服に付く草を摘んで体中にくっつけて遊びながら、用水路をさわさわと流れる水の音やディーゼル機関車の走る音を聞いてのんびり散歩するのも、この上なく幸せだった。

本当に時間が止まったかのような静かな田舎の日々だった。午前中に宿題をやって、午後は何かして遊んでいたのだろう。遊び相手は弟と自然だけだった。その平屋に住んでいたのは幼稚園の一年と小学校の半年ほどの一年半くらいでしかなく、幼稚園は電車で通うような遠い所だったし、小学校もなぜか越境入学をして祖父母の家の近くの小学校に通っていた。母亡き今、それがなぜだったのか理由はわからないが、そんなわけで家の近くに友達はいなかったのだ。
学校のない一日は子どもには長いものだが、そんな日が毎日続く長い夏休みの間に遊ぶ友達もいなければ、いつもは「練習しなさい」と言われるピアノも田舎の家にはないのだ。最初はウキウキして過ごした田舎の生活も、生活必需品しか置いていない空き家の、あれもない、これもない・・・の中では、やはり時間を持て余していただろう。ちょっとぐらいサボりたい・・・と思うピアノの練習でさえ、まるで生まれ変わったように「弾きたくてたまらない病」になったぐらいなのだから。

それでもちょうど今ぐらい、つくつくぼうしが鳴きだす頃になると転勤先の土地へ帰ることになるのだが、そのときの気分は「あー休みもこれで終わりか・・・」という虚脱感だった。のんびりとした田舎の生活と空気は私にとても合っていたし、大好きな祖父母にいつでも会えるのも嬉しかった。「いつかここへもう一度戻って来て住みたいなあ」と社宅マンションに帰らなければならないことを残念に思うほど、特に何もすることがなくても名残惜しく、去り難かった。

しかし残念な気持ちと同時に、楽しい田舎ではあったけれど、その土地に住んでいるわけではない自分はやっぱりよそ者なんだ、という感覚が休みの間に周りから感じられていただけに、やっと自分のいるべき場所に戻れる、という安心感も起こった。この翳りの感覚は転校ばかりしていた私には慣れていたことだったが、家がある場所でさえそういう思いを感じるというのはショックなことだった。どんなに「本当の家はここ。ちょっと転勤で出かけているだけ、留守にしているだけなのよ」と説明しても、周りの人は口では「そうなのね」と受け答えはするが、心の中ではそうは受け取ってくれなかった、ということである。帰省し、最初の頃に感じた「私を見たら驚くかな・・・」というワクワクした気持ちはしばらくすると、それが勝手な思い込みであったと知る。周りは「あー帰って来たの?」くらいのことでしかなく、時には「どうして帰って来たの?」であり、自分が期待したような笑顔や言葉は誰からも聞かれないことを子どもでも気づいた。「いつまでこっちにいるの?」という何気ない質問からも、自分は彼らにとっては既によそ者であって、またいなくなる者としてしか見られていないという距離感を肌でじんわり感じた。

親にそういう気持ちを持ったと話したことはたぶん無いように思う。しかし、私は「一緒に毎日いない人とは心が離れていく」ということを小学3年の時には悟った気がする。誰かに教えられるのではなく、吾の心の中で何か理解することを”悟る”というなら、人生で最初に私が悟ったことがこのことなのかもしれない。
これはそれから数年後、念願叶ってこの田舎に戻って来た時に、今度はそれまで通っていた転勤先の学校で仲良しだった子と電話した時に確信となった。転校後一年ほど文通を続けていた友人だったが、夏休みのある日電話をしてみると、彼女は文通の中にいた親しい友達とは別人のようだった。手紙では仲良く女子トークができていたのに、いざ電話となるとよそよそしくなり、共通の話題がなく、当惑したように黙り込んでいたのだ。
勿論、私という人間が魅力的でないということもあるだろうし、感受性が強い私が過敏にそう感じただけなのかもしれない。
しかし、人間関係とはこうした時間の隔たり、距離の隔たりで変わっていってしまうものだということや、それもグループから離れた側の人間ではなく、抜けていった友人をグループ側が記憶し続けることはないのだという、一つの「摂理」みたいなものを子どもの頃に知った。

しかし、当時は自分だけがそんな目に遭っていると思っていた。が、大人になった今思い返してみれば、これは私も同じだったと気付いた。転入生は覚えていても、転校していった友達のことを全く私も覚えていないのだから。それまで仲良くしていたであろうに、あるいは仲が悪かったであろうに、何の関係性も思い出せないのだ。まるでそんな人が自分の人生には現れなかったかのように、である。

つながりがあったはずの人が完全に記憶から消えてしまうほど、人間は今の環境の中で精一杯生きているともいえるのかもしれないが、無理にもそう考えられるようになったのは大人になってからのことで、子どもの頃は一緒に遊び、けんかし、机を並べて勉強した友達さえ簡単に忘れられていくことに寂しさより怖さを感じ、そして深く傷ついた。しかし、4つの小学校と2つの中学校に通って、何度も似たような経験を繰り返すうちに私は、早いうちから学校の友達はいずれみんな一人になり、自分の世界に進んで、その中でまたつながりをもつこと、未来にまた必ず新しい人に出会うことを予想できる子どもになった。そして「一緒に毎日いないと心は離れていく」というのは裏を返せば、どんなに嫌な友達との関わりも、離れていつか終わりになる時がくるという希望にもすり替わった。そして誰に対しても、いつか来る「別れ」を常に意識しているような子どもになった。

随分ませた子どもだと今は思うが、こうした自分の心の変化は、いつまでも続く友情や竹馬の友をどんなに求めても、それが叶わない寂しさや忘れられていく現実から自分を守る鎧だったと今ならわかる。長くて二年もすれば去らなければならない私は、いづれ自分を忘れていく友達に執着することを恐れ、「しょせん、いつか別れる友達」と冷めた見方をすることによって、自分が傷つかないよう、不器用に自らの心を守ったのだ。そして極めて現実主義、時には刹那主義な子どもになった。病弱だった母をいつも不安げに見ていたことも多分に影響しただろう。

しかし、そうやって年を重ねるうちに自分の世界ができ、それに合わせて類は類を呼ぶように友人の傾向が定まり、自然と長く付き合える、分かり合える友人ができていった。そういう友人は遠く離れたからといって、連絡を取らないからといって、決して忘れたり、忘れられたりすることはないと身を持って知った時、みんな大人になるまで、自分の世界を見つけるまでは多かれ少なかれ、本当の意味で1人だったんだと悟った。あの頃の怖さも、友達が長く続かない劣等感も、特に自分に問題があったわけではないんだとようやく慰められたのだ。

夏の終わりを知らせるつくづくぼうしの声を聴きながら思い出す。自分に向けられた人の好意は永遠に続くものと信じていたキラキラした楽しい思い出と、自分の気づかぬうちに、時間の流れや距離の隔たりが人の心を変化させていく現実を知った寂しい思い出が同時に記憶された、あの幼い頃の夏の日を。あれが言うなれば、移ろいやすい「人間の心」あるいは「他人」というものの入り口を見た、一番幼い記憶である。

しかし、人生で一番純粋に幸せな時間でもあった。今日も私はどこかで鳴いているつくつくぼうしの声を聞きながら、そんな楽しかった子どもの頃を思い出し、母をなつかしく思う。
東京で、コンクリートに囲まれた生活を生まれた時からしている息子は、何が一番幼い記憶となっているだろう。色彩豊かな、幸せな記憶であればいいなあと願うばかりだ。

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