我が家の息子は夏の間、小さい頃から家では甚平がほとんどである。
シャリ感があってひんやりした肌触りの生地、袖も脇も襟元も風が通り抜けるアッパッパのような涼しげなデザイン、着脱衣は超カンタン、毎日洗濯してもあっという間に乾く。これほど日本の夏に相応しい男の服装はない。
そして私が一番甚平をよしとするのは、なぜか甚平を着た男はみな、”いい男”っぽくみえるからとことだ。ニキビずらの男の子も、自信なさ気な姿勢の悪い男の子も、茶髪のチャラ系の男も、いつもは変わり映えのしないスーツを着ているちょっと疲れた中年男も、突然下駄を履かせてもらったがごとく、どこかキリッとしてくる。
どうしてかなーと濃紺の甚平を着た年頃の息子を見て考えた。
濃紺で微かなストライプのステッチがはいった甚平。
脇にはレースが一筋、肌がほんのり透けている。
袖は八分袖くらいで、腕がのぞいている。
襟足は立っているが、胸元は合わせにして、V字ラインがいつもよりやや深い
下はやや長めの半ズボンでスネ毛足がニョッキリ出ている。
こうして甚平の特徴を見ていると、第2ボタンまで外した長袖シャツと長ジーンズを好んで着る息子の普段の服装にくらべて露出度が高い。
しかし、仮に濃紺のシャツの前を深く開けて着たとしたら、どこかホストっぽい感じになるだろうに、甚平だとそうはならない。甚平の半ズボンにサンダルという姿も、洋服の半ズボンにサンダルなら休日の街中の若者らしいファッション、はたまたビーチファッションのような「遊び感」が出てくるが、甚平の半ズボンだと遊び感というより「くつろぎ感」や「ゆとり」といったものを感じる。
おそらくそこが浴衣や甚平の良さなのだろう。同じような露出度であっても、自ら懸命にセクシーさをアピールしようと前を深く開けてシャツを着るいやらしさではなく、襟足高く折り目のピシッとした品行方正さの中にも感じる「くつろぎ感」が甚平にはある。この着ている本人の意図とは無関係に漂う無意識の「くつろぎ感」に相手は魅せられるのだろうし、その作られていないようで作られている魅せ方を和服の「粋」と呼ぶのかもしれない。つまり、普段お堅めのファッションの人にはゆとりを感じさせ、普段ゆるめのファッションの人には品行方正な部分を見せるのが男の和服だとするなら、甚平を着た男がみんないい男っぽく見えてくるのは当然ということになるだろう。
男の浴衣にはちょっとした思い出が私にはある。決してロマンティックなものではなく、どちらかといえば悪い思い出のたぐいだ。
昔は夜遅くまで開いている店はあまりなかったのだろう、私の父は母に何の連絡もせぬまま会社帰りに職場の同僚や部下を連れて帰宅することがままあった。そして突然の来客にあたふたしている母に客をビールや乾き物でもてなさせ、自分はお風呂になんか入った。風呂上がりにはいつもはステテコでも、そういう日は浴衣を着て、「いやあ、お待たせ・・・」とばかり、ゆったりとした風情で客の待つ席にもったいぶって加わった。
今のように冷凍技術が発達しているわけではないので、冷凍枝豆もないし、ホッケやシシャモがいつだって冷蔵庫に待機しているわけでもない。豆腐だってピープーと豆腐売りが夕方リヤカーでやって来るのを待って買うしかない。突然連絡もなく会社の人を連れてきて、お店がまだ開いているような時間なら買いにも行けたかもしれないが、田舎で周りは田んぼばかりの住宅街、店などあってもすぐに閉まってしまうような土地で、どれほど母が苦労したかは想像に難くない。
父方の祖父もそうだった。週末は部下を連れて帰宅して朝まで飲み明かしていたという。正月は時間を決めて代わる代わるご挨拶に来てくれる職場の人に、祖母は毎回新品同然に五段重のおせちを詰め直してもてなしていた。
祖父はもてなす側としてくつろいだ姿だったが、客はみなスーツである。そういう役職にあった祖父ではあるが、表舞台にいる祖父とは対照的に、裏方の祖母は年末からご用聞きに大量のお酒を持ってこさせたり、餅を運ばせたり、魚屋に魚を手配したりしていたというし、普段使わないような大きなお鍋を物置からいくつも出して、栗剥きから始まる栗きんとん、昆布巻き、なますといった様々なおせちに格闘し、年が明けると台所は鍋に入った大量のおせち料理やら空いた一升瓶、とっくりやおちょこ、椀や皿など洗い物で戦場と化した。
父を見ても祖父を見ても、男の着物というのは私にとって家長の象徴であり、母や祖母の絶えない苦労が思い出されて、あまりいい思い出はない。しかし同時に、部下を従えるゆとり、もてなすというゆとり、家長としての自信からくるゆとり、とでもいうのだろうか。こうしたゆとりが着物からくるのか、もてなす優越感からくるのかわからないが、子どもながらに魅力的に見えていた部分があったのも確かだ。
しかし、そんな複雑な思い出のある男の着物が、一変して魅力だけが俄然クローズアップされたきっかけがある。1つは漫画『エースをねらえ』の鬼コーチの影響だ。
テニス部の生徒を鬼コーチが正月に自宅に招いた時の服装が着物だった。いつもはジャージ姿の厳しいコーチが和服姿で穏やかで笑顔を見せるシーンに、ただカッコイイと思った。この漫画を読んだのは十代の終わりだったように思う。まだ恋に恋する夢子ちゃんの年齢でも、気障な言葉や熱い思いを胸に秘める主人公の周りの男子高校生より、普段とは全く違う鬼コーチの大人の、落ち着いた飾らない自然体の雰囲気にビビビッとやられた。私が今までに持っていた男の和服にいだく独特の印象が完全に覆った瞬間だった。
もう一つはドラマ『ホタルノヒカリ』の高野部長(ぶちょお)だ。夏、都会の真ん中にある日本家屋の自宅の縁側でくつろぐぶちょおは、濃紺かグレーっぽい甚平をいつも着ていた。たまに白い甚平も着たが、きちっとアイロンのかかった甚平を細身の長身にさらりと着て、部下であり同居人であって恋人となった主人公ホタルの一生懸命な話にいつも冷静に耳を傾けた。
キャラは違うが、和服をきた二人のこの男に共通するのは、大人であり、穏やかなこと、優しいこと、折り目正しいこと、相手を見抜き導く余裕があることだった。一言で言えば「大人」である。彼らの大人の魅力を和服がさらに引き出して私を魅了したのだ。
息子は年齢的にもそんな魅力はまったく醸し出せないが、それでも甚平を着ると、普段の「だらしないくつろぎ」ではないように見える。息子の実態を知らない周りからはいい風に誤解もしてもらえるかもしれない。中身は何も変わっていないのだから、甚平だけで下駄を履かせてもらえる、すごいマジックだ。
花火大会のカップルは女性が浴衣で男性は普段着というのが多い。可愛く浴衣を着る女の子に男の子はデレデレになりたいだろうし、女の子も男の子が自分にデレデレになってほしいだろうが、私は男こそ和服を着るべきだと思う。女の私が言うのはいくぶん偏見があるかもしれないが、どんなに女の子の扱いに慣れていなくて寡黙になってしまう男の子でも、チャラいことを言って実は自分の臆病さを隠しているような男の子も、浴衣か甚平を着て花火大会にデートに行ってみてほしい。きっと二人の関係も一歩前進するように思うのだ。和服にはそんなすごい力が隠れている。和服が、というよりそれを着る男の子本人の隠れた魅力を表に引き出してくれるのだ。
夏は恋の季節。
日本中に浴衣を着たイイ男がわんさか街にあふれてくるのを目の保養にしたい・・・とおばちゃんは思う。