枕草子

日本古典文学作品のうち、平安時代の双璧といわれる「源氏物語」と「枕草子」。
源氏物語は大人になってから最後まで現代語訳で読んだが、枕草子は有名な第一段の季節のくだりと、他に数段しか読んだことがない。学校の教材や受験勉強のなかで触れた段くらいだ。
やはり日本人として、現代語訳でいいから枕草子もちゃんと読んでおこうとこの年になって思っている。

その有名な枕草子の第一段を最初に読んだ中学生の時から、私は紫式部以上に清少納言に親近感を持っている。まあ、中高生で紫式部の語る話に親近感を覚えたとしたら、かなり問題だろうけど。
しかし、大変おこがましい話だが、私は清少納言のものの感じ方が自分に似てる!と当時から思っていた。第一段の季節の感じ方なんて今でもゾクゾクする。
どの季節も本当に素敵だが、夏の描写と冬の描写が私はとっても好き。

夏は夜。月の頃はさらなり。
やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。
雨など降るもをかし。

いいねえ、風情があって…。
今の「夏」と当時の「夏」は少し季節がずれるが、蛍が飛ぶ季節なのだから6月の半ば過ぎから7月のはじめくらいだろう。
むし暑いが、夜には少し薄手のものを軽く羽織りたくなるような梅雨の時期、蛙の鳴き声がにぎやかに響く黒い水辺を、幻想的な光をゆっくりと点滅させながら、音もなくふわりふわりと蛍が飛ぶさまは、幽玄の世界に紛れ込んだような感覚におちいる。自分の足元も手も見えないほどの漆黒の闇の中にいると、心だけでなく体も無になったような感覚になり、死後の世界で蛍を見ているような、漂うように飛ぶ蛍を死後の自分と重ねて見るような、何とも表現できないような感覚になって声も自然と出てこなくなる。

しかし私がもっとも好きな夏の時間帯は、漆黒になる寸前のほんのわずかな時間だ。隣りに立つ人の表情が少しずつみえなくなり、シルエットだけがぼんやりまだ見えるような時間。息が止まるほど美しい、極上のロマンティックな瞬間だ。清少納言がよいと詠んだ夏の夜は、特にどの時間帯だったのだろう。

ロマンティックなこの夏の瞬間をさらに盛り上げる演出をしてくれそうなものは、私にとってマツヨイグサしかない。竹久夢二はこの花を「宵待ち草」と美しすぎる名に変えて歌を詠んだ。宵待ち草はまさにこの蛍の季節のころから咲く花で、結構強健な茎と根を張る植物のわりに、月を待って咲き、陽の光を浴びる前にしぼむという何ともロマンティックな花でもある。この至極の時間帯に蛍の乱舞を、誰か気になる人と宵待ち草とのコラボで見たりなどしたら、私などは間違いなく一発でやられるだろう。湘南の海よりはるかに危険だ。

ちなみに、マツヨイグサはアメリカ大陸原産の外来種らしく江戸末期から明治の頃に帰化した植物だという。もし清少納言がこの花を見ることができる時代に生きていたなら、どんな感想を持っただろう。さらに意気投合できるような夏の段を書いてくれただろうか。

冬はつとめて。
雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと
寒きに、火など急ぎ起こして、炭もてわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわ
ろし。

冬の描写は夏とは違う意味で美しい。ふんわりと綿のように積もった雪の上に真っ赤な椿がひとつ落ちた音さえ聞こえたような気がするほど、透明感ある静寂の朝が見える。炭をもって廊下を渡る宮仕えの女の人の足さばきの音も衣づれの音も、部屋の中の美しい人の明るい声も、雪がすべてかき消してしまうような朝だ。私はそんな千年以上前の冬の朝を、雪の匂いや空気の冷たささえ感じながら庭から見ている感覚になるのだ。

そして何より私が個人的に清少納言の感覚の鋭さを感じるのは、この冬の最後のくだりだ。

昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりて
わろし。

昼になって寒さが緩んでくると、火桶の火も白い灰がちになってよくない、というのが現代語訳だが、この「よくない」というのは「火が消えちゃって寒いじゃないの!」ということではないだろう。ボーボー、パチパチ燃える暖炉の火ではなく、風を軽く送れば赤さをふわっと増す、そんな控えめな炭の火の生命力が消え、白く灰がちになってしまうさまは、冬の静かささえも「美しかったもの」から「さびしいもの」に変えて「わろし」だと詠んだのではないかと感じるのだ。学生の頃どう学んだか覚えがないし、きっと現代語訳として出ているように「よくない」と訳しただけだったかもしれない。
解釈は違っていたとしても、私はそんな印象を持っていて特に好きな冬の部分である。

古文は得意ではないが、意味がわかってもわからなくても読むのは結構好きである。読むというのは「音読で」である。
それは一文の中にも、また全体を通しても、緩急がいい具合に入ったリズムがあるからだ。このリズム、ボサノバのリズムにもロックのビートにも合うように思う。
たたみかけるような文が続くところは特にかっこいい。平家物語の祇園精舎…で始まったあと、清盛のくだりも、私は寿限無寿限無…のように息もつかず、一気に読んで、一山超えた所でべベンベン!!と思い切り三味線でも入れたくなる。本当は琵琶でゆったりと歌うように読むんだろうが、私が読む平家物語はブレーキが利かないジープのようだ。気が付いたらドスの聞いた声で、ビートを利かせたノリノリな読み方になって加速している。笑っちゃうけど、結構ストレス解消になるんだよね。

でも、一度きちんと枕草子を読んでみよう。
きっと清少納言が私の心のお友達になれるかもしれない。

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