イッタラ 朝露のきらめき

カステヘルミ。北欧食器が好きな人なら誰もが知っている、赤のiのマークで有名なイッタラのガラス食器だ。
フィンランド語で「朝露」を意味するこのシリーズは、その名の通り、透明なガラスに水の粒がちりばめられた、みずみずしい美しさにあふれている。

もともとは、ガラスの加工技術が今より未熟だった今から50年以上前、ガラスの歪みをカモフラージュする目的からデザインされたのだという。しかし、その問題解決のためにガラスの外側全面にポツポツと半球の粒をつけたことで、内側からはその陰影と立体感から、まるで朝露そのものが永遠にガラスの中に閉じ込められたかのようなデザインになった。美しい仕上がりに…と努力する真心が、副産物のように予期せぬ美しさをガラスの中に見せてくれた、ということなのだろうか。
クリア色の皿は、まるで朝日を浴びて水の粒がきらきらと輝いているかのようである。グレー色の皿は、夜明け前の露草が朝露に濡れているかのようにしっとりとした輝きである。私がイッタラの中で最も美しいと思うデザインだ。

ところで、私はこのカステヘルミに出会って、早朝の朝露の美しさに共感する国が日本のほかにもあることに妙に感動した。朝露を「夜の空気に含まれていた水の気体が葉につき結晶化した水の粒」と言ってしまえばイマジネーションの働く余地はない。実際、朝露も雨粒も「水滴」でしかないのに、イッタラはそのガラスに浮かんだ水の粒を「朝露(カステヘルミ)」とわざわざ限定してネーミングしたのだ。詩的な感性を持った国ではないだろうか。朝露に対し、ただの水滴ではない、何か「特別」を感じる感覚があるんだろうと想像するからである。

私は子どもの頃、葉の上にころんとのっている宝石のような朝露を見るのが大好きだった。千代紙やおはじきは集められても、この水の玉が集められないのは本当に残念でならなく、パンツが濡れるのもお構いないしに、私はよくしゃがみこんで、たわんだ葉の先で朝露が今にもぽとんと落ちるのをじっと見ていた。待ちきれないほど長い時間、遅刻することも忘れてひたすら見つめていると、限界に達した水の玉はぽろんと跳ねるように落ちて、葉もぶるんとはじけるように波打った。「わあー落ちた!」と満足感でいっぱいになってから、あたりを見回し、閑散としてしまった道をあわてて走って学校へ行く朝があったことを覚えている。

しかし、いつも不思議に思ってもいた。前の晩雨が降ったわけでもないのに、葉の上に水の玉があることも、それがころころと転がる様子も不思議だった。私には見えないだけでこびとの世界がやっぱりあって、朝もやのかかった時間から彼らはこの水の玉をせっせと集めているんだろう、今この瞬間も私が目を離した隙にきっとこびとはパッと現れて両手で抱えて家に持って帰るんだろう、そう本気で思った。そしてひとり「だるまさんがころんだ」をして後ろを振り返り振り返り、こびとを探したこともある。
朝露がもつイメージは科学を知ったのちも変わらなかった。ファンタジーの世界ではなくても、私にはやはりどこか人間のものではないような、神秘的で尊いものであり続けた。

大人になり、子どもの先生の話から私は朝露に関する日本の言い伝えを初めて知った。朝露を集めて硯で墨をすり、その墨を筆に浸して七夕に願い事を書くと成就するとか、字がきれいになるというものである。初めてその言い伝えを聞いたとき、そのロマンティックさと、謙虚に神様に願う姿に魂が吸い込まれそうになった。なんでも、里芋などの葉にたまる露は、月から零れ落ちた神様の水、つまり天水のしずくであって、神様からおすそ分けして頂いた水と考えられていたんだとか・・・。ため息の出るような美しい言い伝えではないか。
こびとの世界を信じ、朝露が人間界のものではないように感じたのは何も私だけではなく、昔から日本人は朝露に似たイメージを持っていたんだと知った時、自分の感性は日本的だったんだと初めて気付いたのである。

自分が心に抱く感覚というものは、言葉で言い表すのは例え同じ言語であっても限界がある。まして国が違えば言葉も物の感じかたも違って、自分がどう感じるかを相手に伝えるのはさらに難しい。しかしこのカステヘルミを見ていると、日本人が感じる朝露の持つ特別さをイッタラも同様に感じて、心から慈しみ、大切にしているように思えてくるのだ。言葉はわからなくても、自然への鋭い感性と精神性が、とても深いところで日本とフィンランドの間に通じているような気さえしてくる。

実際、このカステヘルミはどこか懐かしい感じがするデザインでもある。薄手で華奢な洗練された印象のものではなく、どちらかと言えば、ガラスは分厚くてぼってりとしており、外側の凹凸があるせいで手に持った感覚も安定がいい。例えば、真っ白いクロスのかかったテーブルで、陶磁器の皿の上にナプキンを敷いて重ね使いで出されるのがふさわしい、というようなものではないのだ。ちゃぶ台や木目の粗いテーブルで、ずっと前からそこにあったかのように馴染む、そんな美しさと素朴さを兼ね備えた日常使いにふさわしい食器なのである。
このちょっと昭和なレトロ感さえ漂うカステヘルミ、どこかで見たような、感じたような・・・と懐かしさを感じるは何故だろう。南部鉄器の風鈴の音を聞きながら、扇風機を緩く回し、浴衣姿で畳で昼寝をする傍らのちゃぶ台で、水滴を滴らせて置かれているのが似合いそうな、そんな懐かしさを私は感じるのだ。見慣れた景色になりそうなほど生活に馴染むガラスなのに、それでいてはっとするほど美しいのは、作られたものではない、自然から切り取ってきたかのような美しさがあるからなのではないだろうか。

私はイッタラ通ではないし、コレクターでもない。人が「素敵」と言っても簡単には靡かないあまのじゃくな人間だ。だからカステヘルミの美について語る資格も素養もないが、そんな私でも文句なしに魅かれるものがカステヘルミにはあった。
廃版となったカステヘルミが2010年に復刻されたおかげで私は出会うことができたが、それもこれも、この美しさに魅了された多くのイッタラ通の人々のおかげである。

言葉や文化が違い顔つきも異なると、同じ人間どうしであっても、どこか別な星の人のように思えるときが私にはある。国どうしが利権を争っていたり、いがみ合っていたり、また町行く一般の人々の敵対心を剥きだしにした言葉や顔つきを見ると、ますます心が離れてしまうときがある。個人的に攻撃を受けたわけでもないのに、愛国心だけで人をそこまで憎めるものなのかと気持ちが萎えてしまったりする。
しかし、カスミテルミを見て私は「人」を感じた。自然のふとした美しさに感動する心の動きは共通だということだ。同じ太陽を見て、繋がっている海を見て、繋がっている空を見て、その日その日を平和に家族と暮らしている人、という共通点だ。どんなに姿形に違いがあっても、考え方に違いがあっても、自然の美に対して響き合う心を持っている者どうしだということを改めて感じたのだ。
カスミテルミは手の込んだ芸術品ではないかも知れないが、自然の美しさを封じ込めた、誰にとっても懐かしい、子どもの頃の記憶を呼び覚ますようなノシタルジックなガラスである。

明日から伊勢志摩サミットが開催される。美しい海と島の神話の舞台に世界のリーダーたちが集まり、経済や様々な問題について話し合う。アメリカのオバマ大統領は足を伸ばし、現職大統領として初めて広島へも訪れるということだ。
国どうしの外交は、武器を持たないテーブル上での戦いだというが、それぞれの立場や守らなければならないものもあるだろうけれど、住む場所は違っても住む世界は同じだと思える、私にとってのカステヘルミのような何かを、各国リーダーたちが伊勢志摩で見つけてもらえたら…と願っている。

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