ノートとPC

5月だ。新学年、新社会人になって1か月が経つ。新社会人はまだまだ慣れず、先輩たちとの力の差を思い知らされる毎日で、きっと精神的にきつい思いをしているにちがいない。がんばれ、新社会人!!大丈夫だ、誰だって初めは一年生だったんだから・・・そう声をかけてあげたくなる。
新学年なった学生、今年大学生になった人はどうしているだろう。4月にフレッシュな気持ちでペンケースやシャーペンなど買って「今年こそは!」と意気込んだ初心はまだ残っているだろうか。

あれだけにぎわっていた文房具売り場も静かになった。あの時に品切れていたものも、今ならあるよーという感じだろう。
シャーペン売り場など見ていると、店の配慮で試し書き用の白い紙が貼られている。そこで波線やグルグル渦巻きを書いて書き心地を試している人も多い。私はもう「コレ」と決めているメーカーがあるので普段は試さないが、あたらしいモノを見てみようと思う時はやはり必ず書き心地を試す。大事な点だものね。
しかし、これはペンだけ試したって本当は仕方がない。紙とペンとの相性、消しゴムとの相性もあるのだから。私も学生時代、買って使い始めてみたものの「このノート、なんか書きづらいなあ・・・」というものはあった。昔は紙質が今より粗いものも多くあったからね。私は今ツルツルした紙にサラサラ書ける組み合わせが好きだ。こっくりとした書き心地がいい人もいるし、そんな好みまで対応してくれているノートもあって、あー書くことが重視されているんだなあと感じていた。

ところが最近の大学の講義では、PCで板書を打ち込んでいる人も多いらしい。写メの人までいるそうだ。私のような紙と鉛筆の世代には驚きの光景だろう。進んでるなあとも思うが、記者会見場じゃあるまし、カタカタ音がしてうるさくないのかな・・・とも思う。手書きの人とPCの人で列を分けている学校もあると聞いた。きっと学校によりけり、学部によりけり、教授によりけりなんだろう。PCの方が断然効果的な学部の授業もあるはずだから。
鉛筆をナイフで削る人は、ナイフが自分の指先の延長のように使いこなせるというが、PCもそんな感覚で使えるのなら、筆記用具が変わっただけ、と考えればいいのかしら。
しかし、アナログな時代を生きてきた私は、紙と鉛筆の勉強方法が好きだ。自分の好きなノートと鉛筆の組み合わせを選ぶのも好きだし、試験勉強で書き込んで汚れたようなノートも「やりました感」があって好きだ。何より自分の手で書いた字は、その字のなかに自分のイマジネーションが付加されて記憶に残った。1ページ中に「蘇我稲目」と何度も漢字で書いているうちに、自分だけの蘇我稲目の顔がぼんやりながら出来上がっていく。蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿とそれぞれが色のイメージがついて記憶されていくのも、手書きの刺激からくるのではないだろうか。そうやって自分だけのノートとイマジネーションが出来上がっていくのは充実感があった。

しかしPCはその点どうなんだろう。PCで板書を取って頭に入るのだろうか。
私などPCを使うようになって実感することは、とにかくキレイに仕上げることが私にとって一番の関心事になってしまっている気がする。つまりPCが本当の意味での「勉強」のための仕事をする道具になれないのだ。後からいくらでも付けたり消したりできる便利さは確かにあるが、何というか、重箱ばかりきれいなものに仕上げている感じがして、肝心な内容は頭に入っているのか不安になることが多い。もちろん、考えながら打っているのだから頭に入っているのだが、例えば、こっちの→にしようか、⇒にしようか、言ってみればどうだっていいことにこだわってみたり、見た目のバランスを考えたりしている。ノートだったら考えないようなことも考えてしまっている部分が私にはあるとわかるのだ。時間に直せばほんの数秒で済む、造作もないことだ。しかし、勉強にその数秒は必要があったのか。時間だけでなく、その数秒間私の脳や心は「勉強」から離れているのは確かだ。

「東大生のノート」と言うのが流行った時期がある。今も特に4月は変わらず注目される内容だろう。それを見ていて私の思ったことは、誰にとってもキレイに見えるノートではなく、自分にとって一番頭に入る書き方になっているということだった。それがまた万人にとって結果的に「わかりやすい」ノートであり「きれいな」ノートにつながるだけ、という印象である。結局何より大事なことは、授業を受けているその瞬間に、自分が学べているかだろう。後から見返してわかりやすいノートももちろん大事だが、その瞬間学べた内容のノートは、間違いなく後から振り返ってもわかりやすいということになる。

しかし現実には、授業のその瞬間に内容をしっかり学べているだろうか。授業を受けながら板書を取るというのは、実はとても難しいことだと思う。手と耳が時差を持って働かないとできないことだからだ。今、一生懸命写しているノートは、先生が今話している内容の少し前の内容である。先生は熱心に話しているが、生徒はその内容を完全には聞き切れていない。「ちょっと、先生どいてくんないかな、見えないよ・・・」と心の中でストレスを感じながら、一生懸命に黒板を見て写している間にも、先生は次の話をしている。蘇我馬子の話を聞きながら蘇我稲目の話を板書し、馬子の話を板書しながらながら、蘇我蝦夷と入鹿の話を聞いて理解するなんて、同時通訳をするようなもんじゃないだろうか。

同時通訳では、例えば相手は英語で話している、それをすぐ日本語で通訳またはその逆をしているが、その通訳中も相手は英語で話している。聞いていると1文ほどズレてくるときもある。すごい集中力だ。同時通訳をしている人の話を聞いたことがあるが、その聖徳太子みたいな業の集中力をキープするために、何でもあれは10分くらいするとすぐ交替して、通訳ブースから出てチョコレートを食べるんだと聞いたことがある。脳を休ませて、脳にとって必要である糖分を即エネルギーになるチョコレートで補給し、耳が疲れないようにブースから出て食べるんだそうである。なんてすごい仕事なんだろう。なんてすごい能力なんだろう。
授業中に板書を取るだけなら誰でもできる。しかし、先生の話を本当にしっかりよく聞き、授業中に理解しながら板書を取るのは、私にとってそんなイメージだ。

私が中学の時、先生が授業中に話している時は一切ノートを取らせないという数学の先生がいた。みんなピシッと座り話を聞き続ける、そして先生が「書いてよし!」と言うと皆が書き始める。「やめ!」というと一斉に音を立てるほど瞬時に鉛筆を机に置かなくてはならない。全員が鉛筆を机に置き、顔を上げて自分を注目していることを確認してから先生はまた授業を再開するのだ。軍隊みたいだが、実際に軍隊的な指導をし、ピシッと音がするほど合図に従う忠誠心を求められた。
決して好きなタイプの先生ではなかったが、授業のスタイルははっきりしていて、とにかく授業中にしっかり理解をさせてしまい、予習はせずともよい、宿題は先生の作った藁半紙のプリントで十分だ、というものである。そして授業前の5分前に着席し、前回の授業のノートに目を通すことをノルマとする!という徹底した「聞く授業」だった。これは完全に強制された。できていなければ1人立たされるとかではない。クラス全員が復習をする時間を授業中に5分取らされる。つまり授業が5分遅れての開始となるのだ。決して授業を受けさせないとかではなく、必ず全員が足並みをそろえて「聞く授業」を受けるように徹底したのだ。今の時代にこれをしたら、どういう反応がおこるかわからないが、私たちの学年はその年の県内か全国か忘れたが、とにかく大きな共通テストで数学は1位であった。

聞くことが何よりも大事な勉強となることを思うと、どれだけスピードを上げたとしても、板書しながら授業を聞くことは本当の意味では困難だと思っている。同時通訳ほど脳の酸素を使い、糖分を必要とすることを、一日に6,7時間も学生はしているのだ。いつも戦闘態勢に入って授業を受けるか、先生の授業のやり方を変えるのでなければ、国全体の教育の習熟度レベルを上げることは難しいだろうとまで私は思っている。

PCで板書を取るのは一長一短だろう。本当の意味でPCを「学ぶための仕事をする道具」」として使えるならいいだろうと思う。聴覚障害のある人などは、PCの早打ちができるボランティアがいたら、授業で何を話されているかわかって助かるだろう。私のようにPCが「道具」になり切れない古い人間と今の人は違うかもしれない。

どんどん時代がすすんで、ついていけなくなってしまっている私は、夫や子どもがいないと完全に時代から取り残されてしまう。
昔を思い出す。マラソンの大嫌いな私は、みんなが走って行って姿が見えなくなると、もうやだ~とビニールハウスの陰で休んだ。後ろから自転車でやってきた先生に「ほらほら・・・」と立たされて走らなかったら、次の授業をさぼったか、早退したかも。ハイハイ・・・と引っ張る人間が今もいるので、こうやってPCを使っているだけだ。
まだ走るの~?と座り込んで世の中に言いたい。アナログだってすごくいいと思うけどな。

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