今年の一月、夫がフィンランド出張の際に買ってきてくれたイッタラの名品「アテネの朝」が、今日も窓辺で美しい水玉を見せてくれている。
北欧家具や北欧食器が好きな人なら誰でも知っている赤い「i」のマークのイッタラ。夏が短く冬が長いフィンランドのメーカーらしく、温かみのあるカラフルな陶磁器やガラスの食器は、太陽や風、水、雪など自然の美しさを慈しんだような作品ばかりで、どれも美しい。
そのイッタラでデザイナーをしていたカイ・フランクにより、このオブジェ「アテネの朝」は制作された。蓮の葉の上に転がるような丸い水のつぶが、一本のガラスの管に5つランダムに並んだ作品だ。ギリシャの教会の鐘の音をイメージしたものだと言われるように、ガラスの玉が互いにぶつかり合うと、やや鈍い音をたてる、いわば風鈴のようなものである。その音はワイングラスのような高い音でもなく、江戸風鈴のようなジャリッと雑音の交じった音でもない。低くて鈍い、がらんごろんというような音だ。また一本にならぶ水のつぶは大きさが違うため、それぞれ音の高さも違う。それが風を受けて玉が軽くぶつかり合うと、静かで素朴で、でもどこか懐かしい響きになるのだ。
目を閉じると、いつの間にか朝の太陽の光を浴びてキラキラと輝く青い海を見下ろす丘が見える。その丘に立ち潮風を全身に受けていると、古い教会の低い鐘の音がかすかに聞こえてくる。「アテネの朝」というネーミングと朝露のようなガラスの玉の姿は、ギリシャを訪れたことのない私にも、そんな透明感のある景色を思い浮かべさせてくれるし、何か伝説までありそうな気さえしてくる。
我が家はこの「アテネの朝」を音ではなく、そのたたずまいを目で愛でている。風の吹くままに任せてこれを窓辺に飾れば、上層階の我が家では風が大変強いので、激しくぶつかりあって割れてしまうかもしれない。なので、開けることのできないガラス窓の方に天井から3本、少し高さをずらしながら吊って、ガラスと外の景色や太陽の輝きのコンビを楽しんでいる。太陽の光を受けるお天気のいい日も美しいが、雨の日でも美しい。大きな雨つぶのようでもあるし、雲の中、水の中にいるようなイメージにもなる。日が沈むころになると、ガラスの陰が部屋の壁に優しい陰影を映し出すのも美しい。
昔から風の気分に任せて音を楽しむというのはどこの国にもあるようだ。
日本はもちろん風鈴だろう。南部鉄器の澄んだ高い音色は、音はそれほど大きくなくてもよく響く。風のゆらぎに任せてかすかに鳴ったり、ふわっと鳴りだしたり、その強弱にもタイミングにも癒される。江戸風鈴の音も、西の生まれの私には最初良さがわからなかったが、だんだんとその素朴な音の良さというのもわかってきたように思う。
私が子どもの頃に覚えている風鈴は、祖父母の家の縁側に吊ってあった貝の風鈴だ。白くきらきらした薄くてまるいものが何枚かぶら下がって、シャラン、シャリンというような響きがするものだった。祖父母の家に行くたびに、純日本家屋の縁側の日陰に吊ってあるのを見て、「あーおばあちゃんちだ・・・」と実感する大好きな風鈴だった。
今の私たちはこうやって音を聞いて涼を感じ、夏の暑さをしのいだりするが、これは江戸時代からだそうだ。もともと風鈴は風鐸と呼ばれ、中国から仏教とともに伝わったものだ。法隆寺の五重塔にも屋根の四方に風鐸がつりさげられている。風によって自ら鳴りだす風鐸は、厄除けであったという案内を以前奈良へ旅した時に受けたことがある。風の神「風神」だろうか。
インドネシアのバリにも東南アジアらしい風鈴がある。バンブー風鈴などと呼ばれているもので、ココナッツ椰子の殻が半分にカットされたヘルメットのようなものの縁にいくつか穴が開いていて、そこから下に向かって細い竹が何本かひもでぶら下がっている。それらよりやや短く中央に吊るされている丸い木にぶつかればカランコロンと少し乾いた素朴な音が鳴る。田んぼや畑仕事の合間に休むような東屋に吊ってあると、風が通り抜けるたびに、その乾いた素朴な音が鳴って、お昼寝でもしたくなるような気持ちになる。
西欧ではエオリアンハープという弦楽器が昔作られた。これはギリシャ神話の風の神アイオロスの持つ琴に由来し、人が演奏するための楽器ではなく、風の神アイオロスのための楽器として考えられたそうだ。風が吹くと一弦が鳴り、共鳴してすべての弦が鳴りだす・・・そんなひとりでに音を奏で始める「エオリアンハープ」は、18世紀ごろ公園や家の窓に設置してすることが流行したという。
ピアノの詩人ショパンのピアノ曲、ピアノエチュードop.25の1番は「エオリアンハープ」とも呼ばれている。羊飼いの男の子が羊の番をしながら弾いていた竪琴をうっかり置き忘れて帰ってしまい、誰もいなくなった草原に風が吹くと、その竪琴がふわっと音を奏で始めた・・・そんなイメージの曲である。
この曲を聞いたシューマンが「まるでエオリアンハープのようだ」と言ったことから、そのような愛称がついたと言われるが、ピアノのペダルと倍音効果によって豊かな響きとなり、まるで気のむくままに吹く風のように、自由でおおらかな曲想はまさにエオリアンだ。
カイ・フランクは、「アテネの朝」をギリシャの空気と鐘の音を視覚的に表現したのか、それとも、鐘の音をガラスがぶつかりあう音で聴覚的に表現したのか私はわからない。しかし、その表現したいものを自然の光や風に任せたという点においては、神にゆだねたと言えるだろう。
風鈴はもともと祈りの役目を持ち、亡くなった人への祈りにはリンを鳴らす。風の中に神が宿るのだろうか。
そんなことを思いながら風の音を聞いたり、風鈴やウィンドチャイムに耳を傾けたら、会いたい人、聞きたい人の声が聞こえてくるような気がする。