我が家は総戸数250世帯ほどの一棟マンションだ。建物としては中高層型、低層型、タワー型、多棟型と種別が分かれても、総戸数100戸以上であれば大規模マンションのくくりになるらしく、地下1階、地上15階で250世帯ほどある我がマンションは「中高層型」の「大規模マンション」にあたる。
それぞれマンションには「ウリ」がいくつかあるが、このマンションの購入を決めた私の中での「カイ」だった1つは、24時間毎日ゴミが捨てられる大型ゴミ集積室がマンションの地下にあることだった。
集積場全体の水洗い清掃のために、正確に言えば週一度、日をまたいで24時間使用できなくなる時間帯があるが、その時間帯以外は毎日、昼でも真夜中でも居住者は鍵を開けて好きな時に捨てられるシステムになっている。これは家電製品などを買ってたくさんゴミが出た日や、長く家にゴミを置いておきたくない夏場、魚(アジくらいだけど)をさばいた日、甲殻類のガラが出た日など特にありがたい。
以前に住んでいたマンションではゴミ置き場が外にあった。当然ゴミ出し曜日も時間も決まっていたから、献立は特売品よりゴミを出す曜日を計算に入れて考えなければならないときもあった。粗大ごみだって当日の朝、背広を来た夫と二人でエッサホイサと運ばなくてはならなかったし、ブロックで囲んだだけの小さなゴミ捨て場に、自分だけ一度にいっぱいゴミを出すのは申し訳ないので、たぶん無意識のうちに普段からゴミの分量も控えめにしていたように思う。
それに比べて今のマンションでは、仮にお寝坊しても問題ない。それに、管理人さんが扉を最大に全開したところへゴミ収集車がバックでこの部屋へ直接入ってゴミを回収するほどの大きなゴミ集積室なので、前のようにゴミの量なんて気にすることなくどんどん捨てられる。この自由さと快適さは入居して17年たった今でも、ゴミ捨てが終わって部屋へ戻るときはルンルンするほどだ。
しかし、本当にそれでいいんだろうか、と実は心の隅で罪悪感を感じてもいた。便利さと快適さが勝って、その罪悪感はちょっぴりなんだけど、それでもチクッと頭の隅に、心の隅に棘のように引っかかり続けていたのは確かだ。
何年か前から私の住む市もゴミ袋が有料になった。近隣の市はそれより前から行っているのは知っていたので、たぶん平均的に見て遅いんじゃないかな。
有料にする目的はわかっているが、それでも「ゴミの量がそれほど深刻ではないんだねえ、それとも財政が豊かなのかねえ、炉がいいのかねえ。ともかく有料じゃなくてよかったわあ」なんて勝手に思っていた。あんなにゴミ捨ての開放感を味わっていながら…。しかし全然そうじゃなかったことが、有料化するという市の説明受けて初めて知った。
言い訳がましいが、そうは言ってもゴミ袋の有料化が始まるよりずっと前から、私は結構ゴミは細かく分別してきたつもりだ。どこの家庭でもやっていた程度なのかもしれないけど、プラスチック、ビン缶、電池など有害ごみ、割れた茶碗などの危険物、お店に持っていけば返金してもらえるデポジットのインク、牛乳パック、はがきやメモ、お菓子の箱など紙類全般、新聞紙、広告、雑誌、布製品、それ以外の不燃物、可燃物といった分別くらいは私もしていた。どのゴミとして分類したらいいのかわからないときにすごく便利な、市から毎年配られる50音別のゴミ分類表や、粗大ごみなのか不燃ごみなのかがわかる説明なども、すぐ見られるようにゴミ袋の入れ物にひっかけて、ちょくちょく調べてもいる。
今のように細かく分別を始める前はどうしていたかあまり思い出せない。完全に忘れてしまうほど遠い昔の事ではないのだから、今のスタイルに慣れてしまったからなのかも。が、慣れるまでは面倒だろうと、ものすごく二の足を踏んでいたのは覚えている。でも実際は、分別すること自体は思っていたほど大変なことじゃなかった。
一番大変なのは分別するための準備。それだけのゴミ箱なり入れ物なりを狭い台所に置くために、配置換えをしてスペースをつくることや、各部屋で出たゴミの分別をどうするかって考えることが大変なだけで、それさえ整ってしまえば、あとはカードを配るみたいにピュッピュッと右へ左へとフットワーク軽く捨てるだけ。結構楽しかったりさえする。
しかしその準備は大変だった。我が家の台所はI型の独立型キッチンで狭い。シンクの背面は食器棚と冷蔵庫、電子レンジなどをおいている棚でふさがっている。おまけに台所は洗面所へ通り抜けできるつくりなので、通り抜けはできないレイアウトにして引き戸を半永久的に閉じてしまわない限り、とこにも負担を強いることなくゴミ箱を置けるようなスペースはない。
結局、食器棚の下の物入れを半ばつぶすように、その前に内側で3つに仕切ることのできる無印良品のゴミ箱を2つ置いた。しかしそれでも足りなくて、電子レンジなど家電を置いている棚の一番下の扉を取り外してオープンにし、そこへ紙ごみ類一式用と、紙ごみを捨てるための紙袋を入れておくためのゴミ箱を二つ並べた。紙ごみならオープンなゴミ箱でもいいだろうと。
今はなんとかその位置で落ち着いているが、ゴミ箱を置くために捨てたものも多い。後悔するようなものではないから、断捨離の上でも正しい判断だったとは思うが。
こうやってゴミの分別を始めて随分経つが、いつも不満に思っていることがある。
行政は各家庭のゴミの分別をペナルティを課してでも実行させようとしているが、企業には購入者が分別しやすいような商品をつくるようにと強い指導は入らないのだろうか。
たとえばペットボトルの周りに巻き付けているプラスチックの包装。薄くて柔らかくて、1枚のプラスチックをくるっと巻いて、つなぎ目をポイントで糊付けしているだけという包装をするメーカーがある。このメーカーの飲料水は、飲み終わった後に包装をどこから剥がすか探す必要が全くない。探さなくてもすぐわかるし、気持ちよく簡単にぺリッと剥がせて分別がとてもしやすい。
かと思えは、包装のプラスチックが厚くて硬いメーカーもある。こういった包装の場合、包装は輪の状態になっていて、ミシン目から剥がすようになっている。そのミシン目を見つけても、爪でカチカチめくって角をつかみ、力いっぱいひんむかないと剥がすことができない。どっちが分別意欲を無くすか考えるまでもないだろう。そんなペットボトルの包装を剥がさないで捨てたからといって、購入者が悪いとは思えない。飲料の種類によって、など理由はあるかもしれないが、同じお茶にしたってメーカーによって包装が違うところを見ると、どんな事情があってのことか知らないとはいえ、企業の方が努力によって改善すべきことじゃないかと思うのよね。
リサイクルマークについても思うことがある。
リサイクルマークはつける義務が企業にあるが、ついていないものもあるよね。輸入品は特に。
本当にリサイクルをする世の中に日本をしたいなら、昔と違ってこれだけ輸入品が巷にあふれる時代に入ったのだし、輸入会社に何も義務を課さないのは変じゃない?外国のリサイクルマークはついていても、日本のマークじゃなければだめだよね。
そしてもう一つ。リサイクルしようにも、私はいつも「どこ、どこ?」とマークを探す。場所もまちまちだし、そもそもマークが小さくない?
本気でリサイクルする日本を行政が目指すなら、例えば外包装の表の右下とか、場所を指定するのも必要じゃないかと思うのよね。
もっと言うと、包装のデザインよりマークを重視して、子どもにも高齢者にも忙しい人にも、つまり誰の目にも、どんな場合でもパッと見つけて分別できるような工夫をしなくちゃいけないと思う。でなければ、さっきのペットボトルと同様に分別意欲がわかないし、わいた意欲さえ消えてしまうかもしれない。
経済産業省のHPを見てみた。
容器包装の識別表示Q&Aによると、プラマークや紙マークの大きさは、印刷・ラベルの場合は上下の長さは6ミリ以上、刻印の場合は8ミリ以上と決まっているそうだ。また、それぞれの一辺の長さや切れ目の幅、楕円ならその傾きや短直径、外直径など、基準とする部分を1として比率で細かく決められている。しかし、最小は決まっていても最大は決まっているわけではないし、容器包装全体の模様や色彩と比較して鮮明で、容易に識別できるのであれば、線の幅やスリット、フォント、周辺の枠や装飾などは自由に決めてよいとあり、色の反転も可能としている。つまり、商品包装のデザインに支障が出るか出ないかを考えて、企業がマークのサイズや場所を決めたりできるということだろう。裏を返せば、企業は分別を推奨することより、商品が購買力を高めるような魅力的な包装をデザインすることの方に主眼を置いている、ということになる。
もちろん、魅力的な包装をつくるのはいい。だって、お菓子とか包装を見て「おいしそう!」って買うのは私もそうだから。
でも、それだけじゃやっぱりよくない。今すでに老眼になっている私は、これからますます老眼が進むよ。足腰が弱って、動きが鈍くなって、フットワークも重くなるだろうよ。「どこだい?どこだい?」なんて眼鏡をかけたり外したりしてリサイクルマークを探して分別できる自信、正直私にはない。
もっと大きく、はっきりと!これから高齢化社会がますます進むんだよ。企業努力が難しいなら行政がすべきじゃないの?例えば、「商品の包装の表右下に表示する。大きさは包装前面の24分の1以上」みたいに。24分の1と言うのはB5のサイズなら一辺が約4センチほど。A5のサイズなら一辺が約3.5センチ弱くらいだ。大きすぎる?そんなことないと私は思う。
でも、本当の日本のゴミ問題はリサイクル率ではないようだ。
環境省のHPによると、例えばペットボトルのリサイクル率は欧米と比較して、日本は文句なしの世界最高水準だという。アメリカのペットボトル回収率はほぼ横ばいの20%ほど、環境大国の多いヨーロッパでも40%に対し、日本はなんと80%以上だ。ときには89,9パーセントという数字を叩き出した年さえあるのだから。アルミ缶のリサイクルに至っては95%近くだし、ガラスのリサイクルは90%で世界3位だ。
こんなにもリサイクルできているのは、アメリカなどは埋め立てに依存する割合が高いのに対し、日本にはそもそも埋立できる土地がないので、燃やすかリサイクルするしか方法がないからだという。納得だね。必要に迫られてるからリサイクル率が高いだけなんだ。
問題は、ゴミの排出量も日本は世界一だというだ。環境省によると、日本人一人あたりが一年間に排出するごみの量は320キロで、これは消費大国のイメージがあるアメリカで100キロとなっていることからしてもダントツ世界一位だという。ゆえに焼却炉の数も日本が1243なのに対しアメリカは351、ドイツは154、スウェーデンに至っては28と、これまた日本はダントツ一位で、不名誉なことにそれによるダイオキシン排出量も世界一位だという。日本の焼却炉の煙突からは白い煙が出ているが、「これはほとんどすべてが水蒸気だからなんですよ、だからダイオキシンはほとんど出ていないのです」と市が行った大人の社会科見学で焼却施設を訪れた際に係りの人から教えていただいた。日本の純国産HⅡロケットも白い水蒸気を出して打ち上がる。この技術をもつ日本の焼却炉だから、ダイオキシンは問題ない範囲なんだと信じていたが、焼却炉の数が桁違いに多いのであれば結果そうなるんだね。環境省のデータが本当なら、自国を棚にあげて中国ばかり責めているのは大きな間違いだろう。
欧米などは野菜や果物もバラ売りが基本であるし、「減らす・繰り返し使う・再資源化する」の3Rだけではなく、「使う量や買う量を減らす」を加えた4Rであったり、ペットボトル飲料を禁止した都市もあったり、法律もきちんとあって、社会全体がリサイクルという考え方以前に、大量消費しないという考え方を持っているということがわかってくる。
日本は今よりしっかりしたリサイクル国家になったとしても、この大量消費の生き方を変えない限り、胸を張って先進国だとは言えないだろう。どんなにおもてなしの国になっても、有事の際に水や食べ物をきちんと配給の列にならんで待つことができても、買っては捨て、買っては捨てと消費を繰り返す物欲の塊のような国では、誇れる美点も帳消しになってしまう。
今月はじめに来日したホセ・ムヒカ氏の温かい人間の生き方に触れたばかりで恥じ入る他ないが、この貪欲な体質はもはや当たり前のようになってしまって、気づかぬうちに日本の文化の一部のようにさえなっているかもしれない。
中国からの旅行者によるトラブルのニュースが取りざたされるが、あれも中国の普通の感覚なのかもしれないし、文化なのかもしれない。よその国でするのは自国では当たり前だからなのであって、今の日本が果たして民度がどーのこーのと、本当に心になんの引っかかりもなく人のことを言えるのかどうか、私はもう一度自分の台所から見直して反省しようと思う。
でも、大量消費そのものをやめていくということは、原子力エネルギーから再生可能エネルギーに日本のエネルギー社会を変えていくのが不可能に近いようにとんでもなく大変なことだろう。せめてリサイクルだけでもしっかりできる社会にだけは目もあてられない。
私は日本が大好きだ。日本人に生まれて本当に良かったし、もう一度生まれ変わることができるなら、人間としてもう一度生を受けることができるとしたら、日本人としてまた生まれたいと思う。
だからこそ、世界から尊敬される日本になってほしい。そのために企業も行政も私も、できることを一生懸命、でも楽しくこなしていきたいと思う。