韓国版のドラマ「のだめカンタービレ~ネイルカンタービレ~」が放送されていたので、連続録画した。
どうしても最後まで違和感は残ったけど、千秋役のチュウォンがカッコよくて、途中からしっかり見てしまった・・・。
ただ、ネイルカンタービレを見てから、やっぱり玉木宏×上野樹里の千秋とのだめが無性に見たくなり、録画しておいたDVDを一気に見直して、ネイルカンタービレの上から「上書き保存」しちゃった。
主人公ののだめは、私の中では上野樹里しか受け入れられず、いくらチュウォンが素敵でも、玉木宏には負けちゃったということだね・・・。
日本のドラマ版「のだめカンタービレ」、面白かったなあ。のだめのハチャメチャぶりと、それに振り回される千秋真一くんやお友達・・・。
学園ものは本当に楽しい!自分の学生時代を思い起こすからだろうね。
だいぶ前のドラマだけど、いつ見返してみてもやっぱり面白くてクセになる。
しかし、クラッシック音楽ものであんなに大ヒットするなんて思わなかった。
のだめの漫画は世界でも出版され、ドラマも放送されたそう。クラッシック音楽が出てくるストーリーって結構怖いイメージが私にはあったから、本当に驚きだ。
例えば、ジャジャジャジャーン・・・と「運命」さながらの音楽で始まる火曜サスペンス。ここで使われるクラッシック音楽って、昔はどうも偏っていなかった?
大きな御屋敷の主が大音量でオペラとかワーグナーをかけ、目を閉じて聴いているとか、バリバリーッと雷鳴が轟き、ビカビカッと稲妻が光る部屋で、電気もつけずグランドピアノでベートーヴェンの「テンペスト」やショパンの「革命」なんかを取りつかれたように女が弾いているとか・・・。
あんな暗い中、よく弾けると思う。まるでホラーだ。
昔の昼メロで音大が取り上げられたときだって、お金持ちのきれいなお嬢さまが芸術の戦いで腱鞘炎になり、女の戦いではドロドロし、本当に見ていてただ怖いだけの世界で、ちっともハイソでもなければロマンティックでもなかった。
もっと素敵なドラマもあったのかしら。
残念なことに私が見た数少ないドラマの中のクラッシック音楽は、どれもみな病的に「上流階級」なだけで、鼻をつまみたくなるような悪臭を放つ、そんな扱いだった。
クラッシック音楽は難解で高尚というイメージが先行し、音楽も、それにかかわる人も別世界に感じられる、まだそんな時代だったのかもしれない。
しかし、私が持っていたそんな怖いクラッシック音楽のドラマのイメージを払拭させてくれたのは、漫画「いつもポケットにショパン」だった。
私の漫画歴では「キャンディキャンディ」に次ぐ2作目の漫画で、初めて自分で買った漫画である。
それにまた、お金持ちの音大のお姉さんのドロドロ話ではなく、自分と同じように制服を着て、同じようなことを感じ、同じようなことを悩み、そしていつも三つ編みが片方だけちょっと曲がってしまう不器用な麻子は、私と同じ等身大の高校生だった。今また読み返しても、「ポケショ」は重いイメージのもたれがたちなクラッシックの世界を、季節で言えば5月のようにさわやかな気持ちにさせてくれる。
主人公の麻子が努力を重ねて、幼馴染の男の子と少しずつ本来持っていた音楽の才能を花開かせていくストーリーは、まるで雨が次第に上がって雲が切れ出し、青空が広がりだすような未来への期待感があった。
韓国ドラマの「ベートーベンウィルス」もクラッシックに向き合う人たちのドラマだ。
しかし、同じ音楽でも「ポケショ」とは全く伝えるものが違う。
若い時には音楽の道を志したけど、現実は厳しくて徐々に音楽を忘れかけてしまった人たちが、もう一度音楽をしたいという情熱を取り戻し、奮闘する大人のストーリーだ。
日々の糧を得るために家族を優先し、夢を捨てなければ生きられない切なさや、音楽に対する情熱を家族に理解してもらえず、仕事の合間を見つけて鈍った腕を磨こうと練習場所を探すひたむきさ、痴呆症で自分というものが消えていく中、それでも音楽だけは記憶から消せない悲しさ、ヴァイオリニストなのに聴力を失っていく絶望感・・・。
さまざまな形の「夢と現実とのギャップ」にもがき苦しみながら、それでもみんなで音楽を作り上げる喜びが捨てられなくて集い合う、年をとった二流・三流の音楽家の物語は、新しい切り口のクラッシック音楽のドラマだっただろう。
女優イ・ジアの可愛さに見とれ、主人公のルミとカン・マエのぎこちない心の触れあいにやきもきさせられもしたが、恋愛ドラマというより、まるでウィルスにかかったように音楽をこよなく愛する、だけど一流にはなれなかった大人が、切ないほど夢を持ち続ける生き方に胸が熱くなるドラマだ。
夢を叶えることも、夢を忘れることもできない苦しみの中、一歩でもうまくなりたい、半歩でも夢に近づきたいという彼らの情熱は「それでも前を見よう、苦しいのはみんな同じなんだから」というメッセージが感じられる。全ての夢を追う人々に共感を呼び起こすメッセージだ。
私はこの2つしか、のだめカンタービレの前にクラッシック音楽のストーリーで好きになれたものはない。
「蒼のピアニスト」は私にはちょっと異常すぎたしね。
それが「のだめカンタービレ」ときたら、見てぶっとんだ。まあ、明るいこと明るいこと!
「ポケショ」はピアノ音楽だけに焦点が当たっているせいかストイックな部分もあるし、「ベートーベンウィルス」はオーケストラものだが、現実の厳しさをつきつける大人のドラマだった。
しかし「のだめ」は、ピアノとオーケストラ両方に焦点があたるというバランスもいいし、ストーリー中で演奏される音楽もとても多く、幅広い。
それに恋愛要素は重くない。主人公ののだめと千秋の恋も、ヴァイオリンカップルのきよらと峰の恋も、互いの音楽性を尊敬しながら愛を育むというスタイルで、音楽と恋のバランスが健康的だ。
そしていつの時代とも同じ、自分の夢やしたいことは何なのかと思い悩む主人公の男女2人は、先が未知数の音楽の道を、たとえどれほど困難でも、孤独な闘いに屈せず共に歩んでいきたいと決意して、同じ道をたどる友達と夢に向かって進んでいく様子はまぶしいほどだ。
そしてそんなまっすぐな姿勢は、漫才のような掛け合いともよく調和して何度見ても楽しいし、シンプルに「音楽っていいなぁ」と思わせてくれた。
ついでに言うと、このドラマではピアノにしてもヴァイオリンにしても、演奏シーンの模倣がうまいということに感心させられる。
もちろん、ちょっと大げさな動きで上野樹里はピアノを弾いているし、水川あさみは弓を持つ手首の使い方が固くはあるけれど、音楽と手の動きにずれがほとんどないことはすごい。
チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトの終楽章でさえ、あれだけのテンポにも関わらず、その音がどの弦で弾くか正確に再現しようとした弓の動きで、かつ音楽とずれないのだ。
昔のドラマでは、仮にピアノなら高音域を弾いているはずの箇所で実際は低音域に手があったり、やたらめったら体だけ動かす「弾いている雰囲気」でしかなかった。
最近のものであっても「花より男子」で小栗旬が王子様のように弾くヴァイオリンのボウイング(運弓)は、あまりに残念すぎるものだったし、吹奏楽でトランペットを吹いていたという職場の女の子は、「ベートーベンウィルス」のカン・ゴヌの吹くトランペットの運指が全くのでたらめで見ていられない、と言った。
その楽器を知っている人にとって、目で見る手の動きと耳で聞く音が違うということは、口の動きと声が完全にずれているのを見るのと同じで、ひどい違和感を覚えるのだが、こればっかりはドラマでは仕方がないことだと思っていた。
しかし「のだめ」は見事なほど、その違和感がほとんどない。振りなのか本当に弾いているのか一瞬わからない時も多く、俳優たちの努力や撮影の工夫を見るのも楽しかった。
しかし同時にそのことが、たとえのだめ人形を放り投げようと、どんなに映像に涙マークやハートマーク♥をつけて遊び心を出そうと、このドラマが一番大切にし伝えたいものは、間違いなく「音楽とそれに真摯に向き合う人」であるということを教えてくれ、俳優たちが限界まで挑戦して表現しようとした姿勢に感動させられた。
マニアックなことはさておき、クラッシック音楽が対象となるストーリーがこれほど大ヒットしたのは、私だけでなく、誰から見てもやはり意外なことだっただろう。
そもそもクラッシック音楽でドロドロせず、かつ、マニアック過ぎて一部の人にしか共感が得られないようなものでもなく、みんなが楽しめるさわやかな印象のストーリーが作れること自体が難しいことと思っていた。
まして「弾いてるふり」の違和感がぬぐえない実写化の壁を乗り越えて大ヒットするなんて、私には驚愕でしかない。
さらにもっと意外なのは、それがそんなに多くの人たちに受け入れられたということだ。
いろんな意味でストーリーとして対象になりにくそうなクラッシック音楽が、様々な切り口でこんなにも取り上げられるようになってきたのは、やはり昔に比べ、世の中が豊かになったということなんだろうか。
私の親世代、クラッシック音楽は贅沢で上流階級のものだった。
母は音楽が好きでピアノにあこがれ、弾きたくてたまらなかったが、そんな高価なものは学校にもないような時代だ。毎日早起きして登校し、朝の音楽室でオルガンを弾いていたという。
私の時代は昔よりずっと恵まれていると母は言ったが、それでも私が中学の頃にピアノを習っている人は一クラス50人ほどの学級で各クラスに1人か2人だった。いないクラスもあっただろう。
ピアノ以外の楽器など習っている人なんて学年でも校内全体でもいなかった。
それに比べ、我が子が小学生だった頃は男子16人、女子16人の32人学級だったが、楽器を習っている男子の人数が昔と比べて非常に多いことに心底びっくりした。
女子で楽器を習っている子が多いと言うのはなんとなく予想できたが、男子で楽器を習っている子も女子とほぼ同じだったからだ。
女子が習う楽器はピアノがほとんどで、中にはピアノとヴァイオリンを習っているという凄腕も1人いたが、男子の場合はやはりピアノが一番多いものの、一クラスにヴァイオリンが3人、チェロが1人いた。
我が子も実はその中に入っていて、ヴァイオリンを習っている。
田舎で育った私と、東京で生まれて育った子どもでは比較もできないし、時代も違うが、それでも数といいバリエーションといい、これほど楽器が各家庭にごく一般的なものとなり、クラッシック音楽が近くなってきたことは、ちょっと驚きではないだろうか。それは、クラシック音楽といえばドロドロ劇、という時代から、さわやかな「のだめカンタービレ」が誕生した背景になっているはずだ。
何年か前かに訪れた、東京都内の高校生のある吹奏楽フェスティバルでは、その年は各学校にカラーを指定し、その色のTシャツを部員が着て演奏するスタイルを取った。
「のだめカンタービレ」さながらに視覚的にも一体感が増したし、男女が同じTシャツを着て演奏する姿は、青春だなあと好感が持てた。
多くの部員を抱えるところも少人数のところもあったが、どこの学校も男子の割合が思ったより多い。その上、生徒たちの持つ楽器は昔のように学校の備品ではなく、ほとんどが自前のようだった。生徒が持ち歩く楽器ケースを見ると、白いペンで番号が打たれている代わりに、多くがマスコットがついていたり、カラーストーンでデコっていたり、ステッカーが貼ってあったりで、すぐに自前だとわかる。
そんなところも私の昔と違う。音楽が確実に、男女関係なく気軽に始められる時代になったんだなと感じさせた。
演奏技術はまちまちだったが、音楽が大好きな集団であることは、一生懸命に演奏する姿から十分感じられた。
ある学校の吹奏楽部は、曲の最後のクライマックスになるとパートごとに立ち上がり、楽器を振り回して踊るように演奏を始めた。
完全にのだめ効果なんだが、観客席からは自然と笑顔と手拍子が起こり、演奏している高校生も観客も会場一体になってその演奏を楽しんだ。
観客も「のだめカンタービレ」をほとんどの人が知っているんだね。
のだめの人気は私ももちろん知っていたが、その高い認知度と愛され度合いを現実のこととして目の当たりした瞬間だった。
ピアノでも「のだめカンタービレ」効果はあったようだ。
ちょうどのだめブームで、鍵盤の絵が付いたバッグも品薄状態という頃、私の知り合いにピアノを習っている小学6年生の女の子がいた。
彼女は、ピアノはただ小さいころからやっているだけで特に興味がなく、親は今まで続けて来たんだから今やめるのは勿体ないとどれだけ言っても、本人はなかなか進まないピアノに嫌気がさして、中学になったらやめると言っていた。
しかし次に会った時、彼女は目を輝かせて私にこう言ったのだ。
「私、ピアノがすんごい好きになった。弾きたい曲がいっぱい出来ちゃってさ、それ弾けるようになるまで頑張ろって思ったんだよね。でもそれにはやっぱ練習しなくちゃダメだってわかって、今まで私がピアノ嫌いだったのは、ピアノが嫌いとかじゃなくて、たぶん自分が練習してないからだってわかったんだよね。だから今は練習してる。すっごい変化でしょ。のだめ見てからなんだ~」と。
練習しないから嫌いになるというのはよくわかるけど、好きならもう少し練習したんじゃないかなあ・・・と多少の矛盾は感じたが、本人はもうピアノに夢中と言うんだから、「良かったねえ、のだめさまさまだねえ」と彼女の母親と笑った。
弾きたい曲は?と聞くと、ミルフィと共演した千秋の演奏を聴いてのだめが練習室に飛び込んだあの曲、ラフマニノフのピアノコンチェルト2番だった。
やっぱりね・・・。鐘のなるようなあの重い和音の出だし。グラデーションで色を変えていく内声部の響き。素敵だよねぇ~。
しかし、難易度はトリプルトリプルトリプルAだぞ・・・。
おぼろげな昔の記憶を頼りに、出だしの部分とサビの部分を少し弾いてあげると、彼女は「うわあ~っ」と言って「千秋だ!千秋だ!のだめだ!そこだけ教えてよ、練習するからさあ!!」と私の背中をバンバン叩いて大興奮となった。
彼女の中ではラフマニノフは「千秋の曲」になってしまったようだが、思春期の女の子にラフマニノフのせつなく美しいメロディーと、かっこいいツンデレ千秋がセットになって、人生を変える音楽となったのは確かだ。
この曲を知ったためか、本当にピアノに目覚めたのか分からないが、中学でやめると言っていたピアノを彼女は大学生になった今も続けているのだから。
スケートの浅田真央選手もソチオリンピックのフリーで、このラフマニノフの鐘の音から自分のドラマを静かに氷上に描きはじめた。彼女がのだめを見ていたか、千秋のラフマニノフを知って選曲したのか、そんなことは私にはわからないが、少なくとも彼女がこの曲で滑ったことで知った人も多いだろう。未来の浅田真央を目指しているスケートを習う子どもたちにとってのラフマニノフは「浅田真央選手の曲」となり、その美しいメロディーと、あこがれの人の滑りがセットになって心に残っただろうし、今頃夢の東京オリンピックを目指しているかもしれない。音楽にはそんな力もある。
「のだめカンタービレ」は、高尚だと敬遠されがちだったクラッシック音楽の武家屋敷みたいな門を、回転ドアぐらいにしたような気がする。その前に立ち、ちょっと押しさえすればドアはまるでその人を誘うようにすっと回転を始める。長い時間をかけて厚くなったすそ野が「のだめカンタービレ」を生み、クラッシック音楽の魅力に気づいてドアに佇んだ人が、またすそ野を広げたのだろう。
リオオリンピックを賭けた日本水泳選手権が終わった。北島選手は残念だったが、真剣勝負に10年以上身を置いて、世界とも自分とも戦ってきた彼の引退宣言の言葉は、「悔いはない」「幸せだった」というものだった。ロンドン五輪の男子団体水泳では松田選手の「北島さんを手ぶらで帰国させることはできない」という男気あふれるコメントに胸が熱くなったし、チームで銀メダルを取った感動は忘れられない。どちらも武士道すら感じたのは、私だけではないだろう。
自分のすべきことし、それぞれが作り上げたものを心を一つにしてみんなで噛み合わせた時、人間はとんでもなく感動的なものを作り上げてしまう。それはスポーツだけではなく、クラッシック音楽の世界も同じ。出来上がったものの素晴らしさもそうだが、それに向かう高い精神性と深い人間性が昇華した姿が、見る者の心を熱くするのだ。そして、ただ一つの夢だけを追い続ける、計算のないひたむきさを持つ者だけが感じることのできる幸せが、見る私たちに感動を与えたのだろう。
自分が幸せになること、それが人を幸せにすることにつながる。
幸せは伝染する。
そう感じたドラマだった。