気に障る言葉(1)

人にはそれぞれ気に障る言葉というものがあるように思う。多くの人が嫌な思いをするような言葉ではなく、自分にとっては嫌なんだという種類のものだ。
たとえばそれは、いいようにも悪いようにも受け取れる言葉で、相手がどっちのつもりで言っているのか分からない、引っかかりのある言葉の場合もあるだろうし、自分の中で人知れず気にしていることを、まさかそんなこととは全く知らなかった人がさらっとそれに触れてしまって、という場合もあるだろう。

「あなたA型でしょ。そんな感じがする」そう言われてA型の私は嬉しいと思ったことが一度もない。たかだか数種類の血液型で人の性格を分類するほど乱暴な話はないと私は常々思っているし、一刀両断するみたいに、そんなおおざっぱなくくりで突然、それもそれほど親しくもない人からそんなことを言われると、腹が立つほどではないものの、やはり不快である。
欧米などは自分の血液型を知らない人がほとんどだと聞いたことがある。医療従事者ではない限り、一般の人で自分の血液型を知っている人は、輸血などの経験がある場合ぐらいだとか。
しかし私がこの質問を嬉しく思わない理由は別にある。一瞬の不快よりはるかにタチが悪い。ざわざわとした気持ちになって、しばらく引きずるからだ。

どの血液型でもその型を使って性格判断をするとき、良い点、また悪い点があがってくる。しかしよい点は悪い点の裏返しであって、表裏一体なことが多いはずだ。
あるHPではA型を「気配り型」「神経が細やかで、人の気持ちを敏感に感じ取ることができる」などと好意的な見方で評価される一方、「慎重」「羽目をはずさない優等生タイプ」など、長所にも短所にもなる評価も紹介している。
しかし「人の気持ちを敏感に感じ取ることができる」というA型の私は「A型でしょ」と言われると、長所の裏返し、つまりどんなに気を付けていても、長所が高じると現れるA型の短所を私から感じ取って言っているのではないか、と考えたり感じたりするのだ。
HPにはA型の欠点を「外面がいい」「木を見て森を話さない」「重箱の隅をつつくような批判をする」とも書いているが、それらの言葉は育ってくる過程で私は何度となく他の血液型の人から言われてきた。「頭が固い」と言われることも昔はしばしばあった。しかし、自分の気持ちに正直で気持ちが隠せない分、外面が悪い面もあるし、大きなことばかり言って自分の足元がみえてないと言われたこともある。細かなことをつつくような話をしはするけれど、その一方でそんないい加減なやり方で、あとあと大丈夫なの?と心配されることもあるし、「柔軟に物事が考えられていいと思います」と褒められたことだって一度くらいはあったよ。
だけど、これらの欠点は残念ながら正直当たっていると思う。残念ながら認めるのであって、決して「えへへ、そうなんだよね~。あたってるわあ!」とペロッと舌でも出して、笑って聞き流すなんてことはできない。「口うるさい」「突然怒り出す」「ヒステリック」「はっきり言ってネクラ」「上に弱く下に強い」なんて最悪。この血液判断を書いた人の奥さんがA型なの?って思う。ここまで言われたら、アスファルトの下にめり込んじゃうくらい落ち込むでしょ、A型じゃなくたって。

AB型やO型は似た部分を多少持っているように感じる。AB型は文字通りAを持っているし、A型はAAとAOがあるくらいだから、O型とも似た部分を持っているんじゃないかな、と勝手に思っている。実際、性格判断を読んでみても、特にO型はA型の私とよく似た部分があるなと感じるし。

ならばAと正反対と言われるB型はどうだろう。
「マイペース」「自由奔放」「気取らない」「さみしがりや」「考えが柔軟」の半面、「おひとよし」「鈍感で察しがわるい」「おおざっぱ」「悪乗りしてズッコケル」「お金はまずたまらない」などとある。これ書いた人、B型なんじゃないの?短所を含めて随分チャーミングじゃない?そんな短所を言われたからといって、どのくらいの人が落ち込むだろう。私のように「気に障る」なんてことあるかしら。でもB型のイメージは私も確かにそんな感じを持っているから、チャーミングな性格なんだと認めるしかないのが悔しい・・・。

これほどの違いを見ると、A型は特にB型に嫌われやすいのかな、とやはり思ってしまう。その逆もあるだろうけど、まじめで固い人より、気楽でちょっとズッコケてしまうくらいのB型を「愛嬌」と見て支持する割合がA型を含めて多いだろうから、勝ち目は全くない気がする。
私がざわざわとなる理由は、その「嫌われているかもしれない」という恐怖なのだし、「あなたA型でしょ」という言葉は、短所と言うよりほとんど「裏の顔」みたいにさえ思える部分を、自分では認めたくない、まして人に気づかれたくないと思っているのに、こちらが何の心の準備もしていないときに突然白日の下にさらされたような気持ちになって「気に障る」ようになるんだから。
この血液判断をした人は実はA型で、B型は夫なり妻なりかもしれないね。だとしたら、ちょっと変化球のラブレターってところで慰められもするし、うらやましくもある。

「あなたは顔が広いからうらやましいわ」という言葉を褒め言葉としてかけたがために、それまで仲良くしていた友人と疎遠になってしまったことがある、とかつて母が言った。顔が広いということがそんなに嫌がられる言葉だとは思わなかったんだけど…と言っていたが、どんなに言葉に気をつけて、言葉を選んで人と接していても、自分が相手でない以上、突然それまでの関係が壊れてしまうことが時としてあることを経験した、と過去を振り返って私に話してくれた。

その友人はとても社交的な明るい人で、病気がちで近所とのお付き合いも薄かった母は、いつも人の輪の真ん中にいて明るくしゃべっている彼女は、まさに花のようで本当にうらやましいと思っていたと言い、疎遠にまでなったことで何が悪かったのか今でも時々考えると語った。どんな風に相手は怒ったのか聞くと、その言葉を自分が言ったとたん、ぷいっと急に横を向いて「そういわれるの一番嫌い!」と言って立ち上がり、去ってしまったのだという。
母はただの一言もその友人をなじらなかったし、私に同調も求めなかったが、今よりまだうんと若かった私は、けなしたのならともかく、褒め言葉なのにそこまで怒るなんてヘンな人だ、としか思えなかった。またそのことをいつまでも考え続けている母が可哀想にも歯がゆくも思った。しかし最近、答えは出なくても、その人が何に傷ついたのか想像してみようと思う心の余裕は持てるようになってきたようだ。ちょうど母が私にその話をしてくれた年とほぼ同じ年に自分が今なっていることも偶然ではないだろう。

彼女がもし本当に大変社交的な人で顔の広い人だったなら、その分、彼女をよく思わない人もいたかもしれない。社交的な人をうがった見方をすれば「八方美人」ととらえることもできなくない。「あの人は八方美人な人…」という陰口がもし彼女の耳に入ったとしたら当然傷つくだろうし、普通は肯定的に受け取れる社交的という言葉も、否定的に言われていると感じるようになるかもしれない。一番簡単に考えられそうな理由だ。

あるいは、その人は本当に社交的だったんだろうか。顔が広かったんだろうか。それが自分でも嫌だったんだろうか。本当はそうではない自分を一生懸命演出して、社交的に見えるようにふるまっていたとしたら?とかなり複雑に考えてもみた。
誰しも、そのままの自分だけを出して生きてはいないだろう。多かれ少なかれ、外には自分を飾って見せているはずだ。血液型ではないが、自分が神経質と見られている不安のある人は、おおらかな自分を演出しようとするだろうし、まじめな人だと思われている人は他人に固い人だと思われないよう、わざと少しちゃらんぽらんな部分を見せて「結構私っていい加減なのよね」と明るくおどけて見せるだろう。恋愛経験の少ないことをコンプレックスに感じている人は、自分は恋愛経験が多く、愛には執着しない人間だというふりをしたがるかもしれないし、本当は甘えたいのにプライドが邪魔したり、重い女だと思われるのが怖くて男に甘えられない女もいる。全てではないが、自分自身のことを言っているものもあって、正直情けない。

もしその友人も自分を演出していたなら、母の言葉を喜んでもよさそうな気がするが、そうではないのだから心理はもっとややこしく、単純ではないだろう。
母には社交的で顔が広く映っていたとしても、その人には努力しても勝てないと思う人が近くにいたのかもしれない、と想像してみる。
「そういわれるのは一番嫌い!」という言葉からすると、社交性を競い合うボスではなく、相手はちっとも競ってなどいないけれど自然と人があつまるようなタイプだったのかも・・・。
人の目に魅力的に映る人とは、熱狂的にもてはやされる「時の人」のようなものとは違って、肩の力が抜けた自然な魅力があり、放っといても広く安定的な人望をあつめる。私が今までに出会った人の中からそんな人を思い出してみると、みな決して輪の中心にいるようなタイプではない。共通するのは、とにかく笑顔で人の話をよく聞き、決して人の話を否定せず、悪口には乗らない人。自分から率先して話しはしないが、水を向けられれば明るく快活に話ができる人。そしてどちらかと言えば控えめな人で、何より感情の安定した人である。なかには、そんな自分の魅力に全く気づいていないような人も何人かいて、私はそういう人に出会うと「あ~完敗だ…」と思った。自分の美しさに気づいていない、これこそ最強の美点だから。

花のような人が人望があるとも限らないだろう。静かに人の心をあつめる人は、人に信頼され、愛されている人だ。その人となりを通して周りのみんなを自然と結ぶ、本当の意味の社交的で顔の広い人と言えるだろう。仮にこういう人に対抗しようと牡丹の花のように華やかにふるまっても、きっとその努力は空しいものに感じる瞬間があるに違いない。人知れずそんな心の葛藤があり、母には彼女のとりまきのように見えた人たちを、彼女自身がそうではないと感じていたのかもしれない。彼女が思うほど誰もそんな風に彼女のことを悪くも見ていなくて、彼女のことも十分好きだったかもしれないけれど、彼女自身の持つ劣等感がそんな不安を感じさせていたとしたら?本当の姿を見透かされ、あてこすられたようにさえ思えて「気に障った」のだとしたら?

私って小説家になれる?なんて思うくらい、複雑難解にその友人の気持ちをかなり無理やり考えてみるけど、その人が怒ったのはなぜだったのか、結局のところ何もわからない。もっとシンプルな理由だった可能性の方が高いようにも思う。

しかし、言葉は本当に難しい。それ以上に、人が何を気にしているかを知らずに話すことは怖い。相手が何をどんな思考回路で考えて腹を立てたりするかわからないで話すことは怖い。何気なく言った一言で傷つく人がいて、自分の言葉が人を傷つけたと知って何年も悔いて悩む人がいる。私のように自分の性格や「裏の顔」に引け目や劣等感を抱いて、他人の一言にびくっとする人は少なからずいるんじゃないだろうか。みんな、多少は自己嫌悪とか劣等感とか持ちながら生きているだろうから。

感情を持った人間が共に生きていれば摩擦もある。でもそんな時、「何が理由だったのか考えたって分からない」と頭から消し去るのではなく、別の人間である自分がどこまで相手を理解できるかわからなくても、母のように何年経っても、何十年経っても時折思い出して考えようとすることは大事だろうし、人として美しいと思う。

自然でいるのが一番。そうわかっていても私には簡単なことじゃない。自分の中で一人その軋轢は続くだろう。でもそれも含めて「いいじゃないか、人間だもの」と思っちゃいけないかな。人とのコミュニケーションに臆病にはなりたくない。

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