今年の桜も東京は満開を過ぎ、今日の雨と風でだいぶ散るだろうとの予報だ。
今年は桜を見るためだけに海外から多くの外国人が訪れたというニュースをよく見たが、もうお帰りになっただろうか。今頃は満開の桜をおさめた思い出の写真を現像して、日本を楽しく思い出しているかもしれない。
しかし、桜の美しさの真骨頂は散り始めるこれからだろう。はらはらと数枚散る風情も、また花吹雪となっていっせいに散る風情も、これがあってはじめて「桜」になりえるのだとさえ感じる美の極致だ。この日本の風情を「目で見ることのできる美」としてだけでなく、昔から日本人が自分の生きざままでそれに習おうとした「精神性の美」としても外国人が眺めるとき、桜の季節に訪れ日本に触れた、といえるのではないかと思う。
ちょうど東京が桜の満開を発表した日にまたひとつ年を取ってしまった私は、その事実よりも「今年も元気に桜を見ることができたなあ」と生きながらえた一年を振り返った。豪華絢爛に咲き乱れる桜は、若い人にとって新しい一年の始まりを祝ってくれているように感じるだろうし、桜吹雪はまさに自分の花道となって、晴れがましい思いと未来への期待で高揚するかもしれない。
が、いつからだろう、私はそれほどの年ではないにもかかわらず、桜が咲くと一年無事に生きられたことを有り難く思いながら、しみじみ眺めるようになった。そして、来年もまた見ることができるだろうかという漠然とした不安から、今年が見納めかもしれないと覚悟して桜を愛でるようになった。
歳をとるとそんな風にひとつひとつ、ものの見方が変化していくのだろう。
桜の名所はこの時期、宴会を開いている楽しいグループやこどもを連れた家族連れ、恋人同士など老若男女でにぎわうが、みんなどんな思いで桜を見ているのだろうか。口には出さなくても、ひきこもごもの思いで眺めているにちがいない。
しかし桜は自分を眺めにきた人間に、自分の人生をより豊かにしたいと今を必死に生きている人間に、お仕着せがましくなく、「桜を眺める間だけでもゆっくりしなよ。先のことなどあまり心配しなくていい。人と比較したりせず、自分らしく自然体で生きればいいんだよ」と教えてくれているように感じる。「そして時がきたら、未練なんてもたずに去ればいい。悲しむ必要なんてない。それだけで十分美しい人生なんだから」と、人間に諭してくれているようにも、慰めてくれているようにも感じる。桜は時を知ると、まだ咲いていてもよさそうに見えるのに一斉に花びらを散らせて消えていく。しぼんで枯れるのではなく、十分満足したといわんばかりに、潔くさわやかに消え去っていく姿は、生と死は相反するものではないという安心感さえ私に与えてくれる。
今「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれる南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏が来日中だ。彼の語り口はゆったりとして柔らかく、表情も素朴で温かい。大統領としての給料の大半を福祉団体への寄付に充て、自分は官邸ではなく農村の自宅で畑仕事や養鶏をして暮らし、友達からもらったという中古車のフォルクスワーゲンを自分で運転して大統領の仕事をこなすという。大統領こそ庶民と同じ生活をすべきだという持論からされていたそうだが、それがパフォーマンスなどではないことは、服装や歩き方、語り口、表情が雄弁に示していて、斜に構えた見方をする私も「今の時代にこんな温かな人がいるんだ…」と驚いた。
しかし彼の人生はそんな柔和な今の姿からは想像できないほど、当時の軍事政権に立ち向かう過激派として、自分の信念に従い、激しい闘争の中で生きてきたらしい。
人生を刑務所の中で学んだ、と笑う彼が一躍有名になったのはリオ会議のスピーチだったという。そのスピーチは日本語訳で全文をネットで読むことができるが、最初から最後まで心を揺さぶられる言葉にあふれている。その中でも世界中で有名になった「貧しい人とは、無限の欲があり、いくら持っていても満足しない人だ」という言葉は日本では絵本の中でも紹介され、きっと小さな子どもの心にも届いただろう。
これは、母もよく言っていた言葉「足るを知る」という老子の「知足者富」の言葉の裏返しだ。「知足のつくばい」にもある。
老子はこれを時の権力者たちに戒めの言葉として言ったのか、弱い立場の人への慰めの言葉として言ったのか、私にはよくわからない。
ムヒカ氏はこれを老子ではなくエピクロスやセネガ、アイマラ民族も言っているように、と述べているが、ともかくこの種の言葉はいつも、欲深い私の心にズキンと突き刺さる。大量消費社会の日本にとっても耳の痛い話だ。「わかってはいるけど、社会がどうにもそうはいかないようになっているんだもん」と言いたくなるが、それは私自身に限って言えば完全に言い訳だ…。
しかしムヒカ氏は難しい思想を話しているのではないし、豊かな先進国にひがんでいるのでもない。消費社会すべてを否定しているわけでも、石器時代まで戻ろうと言っているわけでもない。ただ純粋に、利益を求める経済社会によって既にもう十分豊かになっているにもかかわらず、それでも足ることを知らずにいるうちに、今では常軌を逸した物質社会となって経済格差をうんでしまっていることを反省すべきだ、と言っているのだ。
手にいっぱい持っているのに、もっともっと…と手を出し続ける姿は、足ることを知って幸福に生きている人から見たら、あさましいと思う感情を通り越し、心の満たされていない貧しい人間、あるいは可哀想な人間にさえみえるだろう。
人間の幸福は物質的なところに存在するのではない、として「真の幸福とは何か」「真の豊かさとは何か」と問われると私は本当につらい。どんなに欲深いかは自分がよく知っているから。変えられるものなら変えたいとは思うものの、いっせいのせーでみんなが同時に変わらない限り、不安になるだろうと思っているから。
彼らは「清貧」なんだ、そうきれいな言葉で誤魔化し自分を納得させようとしてみても、それは不可能だ。「清貧」とは富める者がつつましく暮らす人に感じる感覚だろう。物質的に貧しい中でも満足して暮らしている彼らは「清貧」と思って日々を生きているのではない。彼らは人としてただ正しく生きているのだ。
そんな風に思いさえしなければ楽に聞き流せるのに、と思う。心の耳をふさぎたい。ますます心も耳も痛くなるから。
桜は同じことを言葉ではなく、その姿からゆっくりと、気長に、私に優しく語ってくれているように思う。桜に限らず、クジラでも鮭でも自然界のさまざまなものが、不安や不満ばかり抱えて欲深く生きている私を一生懸命慰めてくれているように感じる。人間だって自然界の一部なんだよって。
人間はふらっとやって来てこの世に仮住まいし、そこで小さなことに一喜一憂して生きても、また時がきたら誰もがみんな飛び立って行く旅人なんだ。この世は仮住まいなんだから…。これってなんだっけ、方丈記だったかな。
しかし桜の美しいこの季節は、普段あまり考えないでぼんやり生きている私を思索の人にさせる。センチメンタルとは少し違う。老荘思想のような境地だろうか。
少し心を軽くして、あとしばらくの間、今年の桜を眺めよう。並木をつくっているような素晴らしい桜の名所も素敵だが、「あ、ここに桜の木があったんだ・・・」とたまに気づかれるくらいの存在で咲いている桜が私は好きだ。そのたった一本の桜を友として、毎年同じ友を眺めて年をかさねていきたい。
どうやって生き、どうやって消えるか。人生を桜から学びたいと思うところは、私もやっぱり日本人だね。